市営駐車場から歩いて約10分弱。
『佐久間象山銅像』
鳥居前の左手にあります。

佐久間象山は幕末の大先駆者であったそうです。
松代藩士佐久間一学の長男として文化8年(1811)に生まれとの事。
6才の時から、父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、20才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であったそうです。
23才の時、江戸佐藤一斎の塾に入門。渡辺崋山・藤田東湖と親交し、3年で帰藩。藩の子弟に経書や漢学を教えたとの事です。この頃名を修理、号を象山と改めたそうです。
29才の時、江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集めたそうです。
また、藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申したとの事。
36才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演を行ったそうです。
41才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本佐内など維新の英才を輩出。
ペリー来航国論沸騰の際には、軍議役として横浜警備に当たったり、また、開国論を唱え横浜開港を主張したと云われているそうです。
その後、松陰密航事件に連座して投獄され、44才から9年間松代に蟄居されたとの事。
この間、高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れ、時世について、激論。象山の学識に感動して去ったとか。
54才元治元年(1864)幕府の命で京都へ上り、将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中、7月11日三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げたとの事です。
その後4年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたとの事です。
(『説明板』より参照)
『鳥居』

社地は旧佐久間象山邸であり、境内には象山ゆかりの建物が松代町内や京都から移築されているそうです。
(『説明板』より参照)
私はずっと「ぞうざん」と呼んでいたのですが、長野県での呼び方のようですね(^^;A
境内には、『高義亭』と呼ばれる建物や、『桜賦』『望岳賦』と云われる石碑があったりもします。
池があり近くに佐久間象山宅跡地へ行ける道があります。
細い道を抜けると・・・。
天保10年(1839)の二度目の江戸留学まで29年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めたと云われているそうです。。
象山の父は佐久間国善(一学また神渓とも号した)といい、五両五人扶持(70石相当)の家だったそうですが、剣は卜伝流の達人であり、また、易学をもって知られた名門だったとの事です。
屋敷の指定面積は、877.8平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門があったと云われています。
住宅は屋敷東寄り中央に東西5間、南北3間半の茅葺平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学問所が、裏門の北と南に長屋二棟があり、藩中軽輩士分の屋敷構であったとの事です。また、屋敷東北隅には硝石製造原土置場があったとも云われているそうです。
元治元年3月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに画策したが、
同年7月11日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れたとの事。享年54歳。
佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊されたそうです。
当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみとの事です。
この家は二階建で広く茶室迄も備わり、鴨川を隔てて東山・八坂の塔なども見える、眺めのよい家であったと云われています。
従って、先生は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、『雨楼』と名づけられたそうです。
佐久間象山は7月11日、頑迷な攘夷論者のため非業の最期を遂げたとの事ですが、それまでの僅か2ヶ月の住居であったとの事です。
この茶室はその煙雨楼内の茶室で、昭和40年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏が譲り受け保管されていたそうですが、昭和56年にその資材のご寄贈をいただき、佐久間象山の往時を偲び後世に伝えるため『煙雨亭』と名づけ、佐久間象山ゆかりの地に移築したものとの事です。