長々と書いている、5月5日の話(^^;A
今迄は、『善行寺七福神巡り』についてと、それに関係した寺社の由来等を書いて来ましたが、『善行寺七福神巡り』の他にも、御朱印巡りを数件したので、ここからはその様子をアップしていきたいと思います。
まずは、『川中島古戦場』。
今まで何度も古戦場の前は通っているのですが、中に入った事は一度もなく、この日が初めて。
駐車場から『八幡社』へ通ずる橋。
この手前にも橋があったりするのですが、敷地には小川が2本流れており、遊歩道のように整備されており、敷地内を歩く事が出来ます。
また、近くに『長野市立博物館』があり、遊歩道から博物館へも行けるようになっています。
更に奥の駐車場の先には芝公園が広がっており、この日は休日という事もあり、家族連れが多く訪れていました。
私はそちらの方へは行かず、『八幡社』のみ伺いました。
『八幡社』の看板。

ここの場所で武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをした証。

『八幡社』は武田信玄が陣構していた場所に建てられているそうです。

当時の様子を書かれた看板。
昔よりこの周辺一帯を、この神様の御名に因んで「八幡原(はちまんばら)と呼ばれているそうです。
『鳥居』
これより先、武田信玄が陣構え、御加護を仰いだ八幡大神を奉斎する神社の神域となるそうです。

『川中島合戦図』
鳥居をくぐった左手奥にあります。
鳥居から数十メートル進むとが見えてきます。
八幡社は山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したと伝えられているそうです。
永祿4年の第4次川中島の戦いのときに武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦場になったため社殿は破壊されてしまったそうです。
そこで信玄は海津城代高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させたと云われています。
旧社殿は平泉の中尊寺金色堂と同じく鞘堂構造だったとの事です。
永祿4年の第4次川中島の戦いのときに武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦場になったため社殿は破壊されてしまったそうです。
そこで信玄は海津城代高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させたと云われています。
旧社殿は平泉の中尊寺金色堂と同じく鞘堂構造だったとの事です。
現在は後ろに本殿が構えています。




『信玄・謙信一騎打ちのブロンズ像』
武田軍の本陣に攻め入った謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたとされるエピソードから、昭和44年に放映されたNHK大河ドラマ「天と地と」を記念して建立されたブロンズ像だそうです。
また、ブロンズ像の両側には両陣の旗の解説されています。
現在ある社殿。
この社殿は、上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、皇紀2600年記念事業として、昭和15年に移築したものだそうです。
生島さん(私が住む地域では「生島足島神社」の事を「生島さん」と呼んでいます。)と、繋がりがあるとはΣ(°°;
『逆槐』
山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍狭撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をはりめぐらして本陣をおいたそうです。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられているそうです。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡との事。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられているそうです。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡との事。
『三太刀七太刀之跡』
永禄4年9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍30,000余の壮絶な死闘が展開されたとの事。
上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本陣を強襲したそうです。
この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していたそうです。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に負傷を負ったとの事。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡と云われているそうです。
上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本陣を強襲したそうです。
この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していたそうです。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に負傷を負ったとの事。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡と云われているそうです。
実はこの説明書きの横には石碑がたっているのですが、いい写真がなかったので看板のみですみません・・・。m(_ _)m


『執念の石』
武田・上杉両軍30,000余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだしたそうです。
苛立った槍は鎧の方を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したと云われているそうです。
苛立った槍は鎧の方を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したと云われているそうです。
この他にも『首塚』『田中月亀翁父子の碑』『御神水』『土塁』などがあります。
(『川中島古戦場』公式HPより参照。
リンクフリーとの事ですので、リンク貼らせていただきます。

この後、、松代の方へ行き、御朱印巡りをしたのですが、その様子は後日あげたいと思います。
もう少し、5月5日の様子をあげていきますが、お付き合いお願い致しますm(_ _)m