平成29年4月20日。
この日、三四六さんのコンサートがあり松本へ。
コンサートは18時からだったのですが、お昼頃に松本へ行き、御朱印巡りをしました。
まず行ったのは・・。
『松本城』。
~創始~
戦国時代の永正時代初めに造られた『深志城』が始まりとの事です。
善菊時代になり、世の中が乱れててくると、信濃府中といわれていた松本平中心の井川に館を構えていた、信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移し、その家臣らは、林城を囲むよいに支城を構えて守りを固められたそうです。
その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としたそうです。
また、更なるその後、天正十年に小笠原貞慶が、本能寺の辺による動乱の虚の乗じて深志城を回復し、名を『松本城』と改めたそうです。
~天守築造~
豊臣秀吉は、天正十八年に小田原城に北条氏直を下し天下統一すると、徳川家康を関東に移封したそうです。この時、松本城の小笠原氏が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じたそうです。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・櫓・堀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めたとの事。
天守の築造年代は、康長による文禄二年から三年と考えられている。
(参照:いただいたパンフレットより)
表から入るのは初めて。
人力車と松本城と南アルプスの共演。
この日は南アルプスが見えましたが、普段は滅多に見ることが出来ません。
見れて良かったぁ~(^^)
『黒門』
本丸に入る正門。
櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要であるそうです。
一の門(櫓門)は昭和三十五年にに復興し、二の丸と袖堀は平成二年に復元されたそうです。
『黒門』を入り少し進んだ所。
シダレザクラと松本城。
シダレザクラは満開を過ぎていましたが、園内のソメイヨシノは丁度満開でした。
『渡櫓』(天守への入り口)
天守と乾小天守をつないでいるのが『渡櫓』。
天守閣への入り口である大手口は、頑丈な扉があり、簡単には中に入れないように造られているそうです。
『松本城』には数回来たことがあるのですが、初めて天守閣の中に入ってみました。
天守閣の頂上に行く間に、様々な展示物が展示されているのですが、私が入った時、大混雑しており、撮影していると邪魔になってしまうと思い、やめてしまいました。
海外からの観光客も大勢いらしていました。
天守閣最上階(天守6階)から撮影。
ここは戦の時、周りの敵の様子を見るところ(望楼{ぼうろう})だったそうです。
天井は井桁梁(いげたばり)でがっちりと組まれているそうです。
天井中央には二十六夜神という松本城を守る神様が祀られているそうです。
最上階から見た『本丸御殿跡』
御殿は天守の完成後の建造で、城主の居所と政庁を兼ねていたそうです。いわば政治の中核部であったとの事。
淳保十二年に焼失、以後、再建されなかったそうです。
ここまで登るに、急な急な階段を昇ってきましたが(場所により45度の急傾斜の階段があったり、段と段の間が通常より広い階段があったりも=3また、天井が異常に低く、頭をぶつけそうな感じの所も。皆さん、四苦八苦され昇られていました。)、高所恐怖症でなくても怖いかも(@@;)
昇るのも怖かったけど、下りる方がもっと怖かった・・・。





