階段を昇りきると『岩谷堂(いわやどう)観音』の本堂がお目見え。

朱塗りに映える現在の堂宇は、徳川時代中期、今からおよそ230年前安永6年の建立で、それ以前は現在「奧の院」と呼ばれている本堂裏の洞窟の中に安置されていたそうです。
境内の下を通っている道路はかつて鎌倉街道であり、当時の一級国道だったそうです。
岩窟中に安置された霊佛と希なる風光明眉なこの場所を従来のたびびとは自から参詣の念を起し、過去の縁者の冥福と我が身の息災を祈念したものと思われる五輪塔(石塔婆)が境内から無数に発見されているそうです。
一瞬、お寺さん?と思うような、一般的家庭の様な建物です。
ここには、『伝説 一柳三躰観世音』が言い伝えられています。
(内容は後程。)
また、夏になると、
この日は、たまたま御住職が出掛けていて、御住職の奥様が筆入れをして下さいました。
【信濃三十三観音霊場巡り】をする際は、連絡をしてから行った方がいいとあったのですが、
連絡せずに伺ってしまって。
でも、急に訪れてしまいましたが、快く対応して下さいました。
何処から来たか聞かれたので、近所という話から、祖父母の名前を出したら分かってか下さって。色々な話をお聞きしました。
世間は狭いなぁ~と感じた一時でした。
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『伝説 一柳三躰観世音』
むか~し、むかし丸子の腰越あたりに大きな大きな柳の木があったそうな。
いつの頃からかこの木に大きな大きな龍が住みつきよった。
困った事にこの龍の吐く息で近くの農作物はみんな枯れてしもうて人々は大変難儀をしていたそうな。
たまたまこんな頃(承和元年{834})、都から偉い偉いお坊さま(慈覚大師円仁)がやって来たそうな。人々はこのお坊さんに龍の話をして助けてくれるように頼んだそうな。
お坊さまは早速人々の難儀をあわれみ、龍を追いはらうありがた~いお経をはじめたそうな。すると龍はたちまち柳の木から降りて来て長々と寝てしもうたそうな。その長い事と云ったら頭は腰越で、胴は岩谷堂に、シッポは尾ノ山迄とどいたそうな。
お坊さまのありがた~いお経が終る頃、龍はしずかに身をくねらせて天へ昇っていったそうな。天へ昇っていった龍は、やがてこの地方に恵みの雨を降らせる龍神様になったそうな。
お坊さまはこの龍の住んでいた柳の木を切って三躰のお観音さんを刻られて三つのお寺を開かれたsぷな。
龍の頭のあった腰越の鳥羽堂に龍頭山龍福寺、龍の胴のあった袰谷堂に龍洞山宝蔵寺、龍のシッポのあった尾の山に龍尾山平等寺とそれぞれお観音さんを安置して、この土地の人々がいつもでも平和で、幸せであるようにと祈られて立ち去ったそうな。
『慈覚大師円仁』(794年~846年)
比叡山第三代座主。
近くでは別所の北向観音をはじめ信州から東北地方にかけて沢山の寺を開いた。
『平景清と楓の前』
平家の猛将と云われた悪七兵衛平の景清は平家壇ノ浦で滅亡後一門の仇を討つべく、旅の僧に身を変えて鎌倉に向かう途中、宝蔵寺に立ち寄ったと云われている。
これを追って景清の寵姫「楓の前」も宝蔵寺に参ったが、景清が鎌倉で捕まったのを知り、この寺に留まり景清と平家一門の菩題のために生涯をささげたと云われており、景清公の遺品が寺宝として伝えられている。
『義仲の挙兵』
以仁王より平家追討の令旨を受けた木曽冠者源義仲は、木曽の地をはなれこの地に来て依田氏の館に入り、信濃・関東の武将を集めて軍団を整え、この地にて旗挙げをなし、北陸路よりいち早く都にあがり、旭将軍の偉名を天下にとどろかせた。
義仲依田在城当時、戦勝祈願に宝蔵寺の観世音に参詣した折りに馬で上った道が今でも「義仲馬大門」として語り継がれている。
又、義仲が手植の桜は「義仲桜(シダレザクラ)」と呼ばれ、今も八百(やお)の春を告げてくれる。
(参照;宝蔵寺でいただいたパンフレットより)
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伝説はなんとなくは知っていましたが、このような伝説だったとは初めて知りました。
御朱印の旅をする中で、新たな発見が出来るのは本当に嬉しいです(^^)