平成29年3月8日。
この日は、私用で出掛けたついでに海野宿へ行ってきました。
海野宿は、寛永初期、北国街道の宿場として開設されたそうです。
北国街道は、佐渡で採れた金の輸送や、北陸の諸大名が参勤交代で通った道であり、江戸との交通も頻繁で、善行寺への参拝客も多かったと云われています。
明治時代に入ると宿場の機能は失われてきてしまったそうですが、宿場時代の広い部屋を利用して、養蚕・蚕種業で復興したそうです。
この養蚕最盛期の明治・大正時代の蚕室造りは、江戸時代の旅籠造りと良く調和して、現在まで残されたとのことです。
昭和61年に「日本の道百選」に、昭和62年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けたそうです。
また、諸説あるそうですが、海野氏の発祥の地とも言われているそうです。
街並みの様子。
タイムスリップしたような景色。
以前は車通りも結構あったのですが、海野宿を回避するように道が出来てからは車通りは少なくなったと思います。
現在『北国街道 海野宿 ひな祭り』が開催されていて、これを見る為に海野宿に来たのです。
多くのお店等の軒先に雛人形が飾られています。
現代の物から、年代物まで、様々な雛人形が飾られていました。
『卯建(うだつ)(卯立)』と『気抜き(小屋根)』
『卯建』は、防火壁の役割を果たしており「火返り」とも呼ばれているそうです。
また、様々に改良もされ、色んな用途に使われたそうです。
『気抜き』は、養蚕・製紙業が盛んになった明治時代に、蚕の飼育に保温がとても大切で、蚕室の一階で暖を取り、その煙出しと調節の為の小屋根だそうです。
火の見櫓も街並みに合わせています。
海野宿の東にある『媒(なかだち)地蔵寺跡』
海野氏家臣、赤石藤治友信が媒地蔵菩薩を安置したことに始まったそうです。
創建年は不明だそうですが、天文年間に衰退。寛永時代に中興開山、地蔵寺と称したそうです。また、元禄時代にこの地に移転再建されたものの、昭和26年に焼失し、まもなく廃寺となってしまったそうです。
江戸時代には、北国街道を通行する多くの人義と、海野宿ににゆかりのある人々に心の支えとして、また心のよりどころとして厚く信仰されたそうです。通称「縁結地蔵」と呼ばれたそうです。
また、媒地蔵には逸話があるそうで、ある国の姫が、なかなか良縁に恵まれず、ある時、縁結びのお地蔵さんが海野にあると聞き、参勤交代の道中にお参りをした所、立派な男性にめぐりあい、結婚する事が出来たと言われているそうです。
私もいい縁がある事を願い参拝。(笑)
境内にある石灯籠や井戸も時代を感じました。