「つらいことがあったときは、まわりの人(大人)に相談してね」

 

「一人で悩まないでね」

 

「逃げることは恥ずかしいことじゃない」

 

「もっとまわりに頼ろう(甘えよう)」

 

「みんなで助け合って生きて行こう」

 

 

誰しもが一度は聞いたことのある一見優しくて思いやりのある言葉だと思う。

 

時にはその言葉に心を救われ、命を永らえようと懸命に突き進む人もいれば、その反対で、これらの言葉が逆にプレッシャーとなり、高いハードルとなり、身動きが取れなくなる人もいる。

 

そう考えると、万人が納得する言葉とは何ぞや?という話になってしまうのだが、今回は触れないでいようと思う。

 

 

 

 

そもそも論だが「つらい出来事」と一括りにしたって、人に話すことで気持ちが楽になるレベルの「軽度のつらさ」もあれば、人に話すことすらためらわれるような「中度のつらさ」や、もはや誰かに話す(頼る)という思考回路にすら至らないレベルの「重度のつらさ」ってものがあると個人的に考えていて、その「つらさレベル」はもちろん人それぞれで、自分が抱えているつらさが今どのレベルのつらさなのかを自分なりに判断し、把握することが出来るくらい心に余裕のある人もいれば、つらいことを我慢しすぎて、時すでに遅し。もはや麻痺し過ぎて、「つらい」という感覚すらなくなる人もいると思う。

 

そして、自ら死に至るわけで。

 

 

 

ある程度の「一般的な人」は日々のストレスだとか目の前に壁が立ちはばかったとしても、なんとか回避していくすべを自分なりに見出しながら器用、不器用あるが、各々の人生を歩んでいけることだろう。

 

しかし、そんな人たちにも、時には越えられない壁や、避けて通ることの出来ない道に遭遇する確率だってゼロではない。

 

だからこそ、タイトルについて思うことがあり、気持ちを整理するうえでも今一度考えたい。

 

 

 

先ほど「一般的な人」という括りをしたが、私の考える「一般的」とは「一般的=普通」ではない。

どちらかといえば「心の修復がうまい人」と「心の修復が苦手な人」に分類される。

 

「心の修復がうまい人」は自分の心や体のケア(キャパ)を上手に扱える人。

「心の修復が苦手な人」は自分の心や体のケアの仕方が分からない人。

 

だと考える。

 

どちらがポジティブでどちらがネガティブと決めつけるのではなく誰にでもどちらの要素は存在し、「その問題に直面した時のつらさのレベル」によって、前者にもなり後者にもなりうるのである。

 

 

「すごく明るい人だったのに子供産んでから暗くなったよね」

――体の変化だったり。「なりたくて暗くなってるわけじゃない」

 

「小学校の時は暗い奴だったのに高校になって垢ぬけたよね」

――環境や心境の変化があったり。「うまく立ち回らないと……」

 

「あの人って仕事もできるし常に落ち着いてるよね」

――死ぬほど我慢強かったり。「そういう自分を演じているだけ」

 

「お前バカだし、悩みとかないだろ」

――実は、精一杯頑張ってるし、人一倍悩んでるのに。「表に出さないのが上手なんだよ」

 

 

頑張りすぎて気持ちを隠しきる余裕のない人。

 

やむを得ず環境の変化に流される人。

 

自分のイメージ”にハードルをつけすぎて、まわりの評価や世間体にとらわれる人。

 

優しさゆえに、本当の気持ちを隠す人。

 

 

人それぞれ自分にあった役を演じながら「人生とは……」と、他人に述べる。それが我々、人間というものである。

 

もちろん、自分らしく真っすぐに、人生を謳歌している人たちがいることも忘れてはいけない。

 

 

 

 

いついかなる時でもストレスや悩み事は襲ってくるもので、例えば自分が小学生だとして、特定のクラスメイトからいじめられていたとしよう。

 

明日も明後日も永遠に学校に行かなければならない。

 

いじめっ子と嫌でも顔を合わせないといけない。いじめられたくないのにいじめられに行かなければならない。

 

本当は誰かに助けてほしい。

 

先生に言って解決するどころか言ったことがバレてさらにいじめが悪化したらどうしよう。

 

「つらいことがあったときは、まわりの人(大人)に相談してね」とは言うものの、それが出来たら苦労しない。

 

身内や親には相談できない。

 

悲しい思いをさせたくないし、申し訳ないとも思う。

 

いじめられてることすら知られたくない。

 

恥ずかしい。

 

こんな惨めでかっこ悪い姿を見せたくない。

 

自分でも認めたくない。

 

言ってしまったら「弱い自分」や「惨めでかっこ悪い自分」を認めなきゃいけなくなる。

 

プライドがボロボロになる。

 

情けなくなって、いよいよ誰にも相談出来ず、最後の頼みの綱で命の電話にかけるも混み合っているのか繋がらない。

 

何度かかけ、繋がったと思ったら定型文のような返しに面食らう。引きこもるか、死ぬか、気持ちの余裕次第ではネットの人に助けを求める行動力が湧くかもしれない。

 

いずれにせよ、克服なんかできないし、先を行く人の「生きていればどうとでもなる」とか「今はつらいかもしれないけど、これを乗り越えた先にきっといい未来が待ってるから今はつらくてもじっと耐えて我慢しよう」とか、「世界にはあなたよりもっとつらい目にあってる人がいるんだからマシだと思って頑張って生きよう」とか……。

 

絶望の淵に立たされた人間にとって、これらの言葉は拷問以外の何モノでもないよね。

 

「生きていればどうとでもなる」とか「今はつらいかもしれないけど、これを乗り越えた先にきっといい未来が待ってるから今はつらくてもじっと耐えて我慢しよう」とか、あくまでもその人の体験談であって、その人には、結果的にいい未来が待っていただけであって、もしかしたらその先行く人の言うとおりに未来に良いビジョンを思い描いて、いじめに耐えて、我慢した末に心が壊れてしまって精神薬が手放せなくなってしまったとしてもその先行く人は誰も責任なんてとってくれないわけで、それでいて「生まれてからは自分の責任だ」何て言われた日には、言葉に詰まるよね。

 

「世界にはあなたよりもっとつらい目にあってる人がいるんだからマシだと思って頑張って生きよう」って声をかけてくる人にも言いたいけど、正直「世界の人なんか知らねぇよ!」って、今現状自分のことでいっぱいいっぱいなのに、世界の貧困問題とか気にしてる余裕があると思うのか、今一度己の胸に手を当てて考えた上で、あなたは目の前の人一人救えてないのに世界のことを心配している場合か?

 

「一人で悩まないでね」って、じゃあどこの誰に悩みを打ち明ければいいの。

 

「もっとまわりに頼ろう(甘えよう)」って、「甘えるな」「自立した人間になれ」って外圧かけられてるのに?

 

「逃げることは恥ずかしいことじゃない」って、なんでいじめられた側が逃げなきゃいけない前提なの?いじめた側にはなんのお咎めもないの?いじめた側にこそ今後のためにもケアする必要があるんじゃないの?

 

「みんなで助け合って生きて行こう」って、自分以外のすべてが敵に思える今この現状で誰を信じ、誰と手をつないで助け合って生きて行けって?

 

 

 

 

 

――とまぁ。追い詰められた人間は、どうしても視野が狭まり、正常な判断が出来なくなっていくものと考える。

他人からの優しい言葉も、ありがたい助言も、すべて捻くれた解釈で捉え、より自分で自分を追い込むような思考回路へと陥り、終いには誰のことも信用できなくなって人間不信に陥り、自分だけの殻に閉じこもってしまう。

 

まわりの暖かい助言も、優しい言葉も、人によっては背中を押してくれる勇気に繋がり、人によっては背中を刺される凶器に繋がり、時と場合によって言葉を選ばなきゃいけないと思うと、ある意味言葉というのは、薬にも毒にもなるモノだとしみじみ理解することができた。

 

例に挙げたのは、もし小学生ならって話ではあったが、仕事をするうえでも同じことである。

 

 

 

 

この記事を書いていて、今回感じたことは、

 

 

「情けない自分も好きになってあげよう」

 

「かっこ悪い自分で何が悪い」

 

「人生は生きるも死ぬも自分次第」

 

「助けて。って言えないから我慢するんじゃなく、一人でも寂しくないから平気。って開き直って、遠慮なく先生に自宅学習がしたいと申し出る」

 

「月日がたち、少し心に余裕が出てきて、知人が出来たとして、その知人が悩み事を打ち明けてきた時は、その知人の情けないところも、かっこ悪い姿も静かに受け入れられる人間に成長する」

 

「いつしか信じられる人や、信頼できる人に出会った際には、手をつないで助け合って生きて行けたら良いなと思う」

 

 

 

自分はすでに社会人ではあるが、社会人こそ個性的な人で溢れているわけで、様々なトラブルも多発する。

 

大人げない人も、理不尽な無理難題を押し付けてくる人、厳しい上下関係に苦しんでる人……。

 

悩みも、ストレスも多きこの現代で、絵にかいたような勝ち組な人生を歩んでゆくのはとても難しいと思う。

 

人生ハードだからこそ、死にたくもなるし、思い悩むこともある。

 

目の前に壁が立ってたとして、みんな同じ壁だけど、ある人には10センチに感じ、またある人には100メートルに感じ、ある人には数十センチもの厚みを感じるかもしれない。

 

そのハードルを超えるか、立ち止まるか、脇道にそれるか、助けを呼んで協力して破壊してもらうか、進み方も進む方向もみんなバラバラなわけで、どれが間違っていてどれが正解ってのもない。

 

そこに気づけただけでも、生きていてよかった。と、過去から学んだことは多かったなと、今までの人生を振り返ってみて、これらのことに気づけた良いきっかけにもなったし、今後生きていくうえで、少しだけ気持ちが軽くなったように思えた。

 

 

 

人生山あり、谷あり、波もあるけど自分なりに進んで行けたら良いな。