修学旅行で泊まった旅館のことを今でも覚えている。
初夏のすばらしく天気のいい日だったのだろう、
そして、みんなと楽しく遊べた日だったのだろう。
青空にそびえる旅館の建物が、まるで竜宮城のように見え、大人になったら、
必ず一度は、こんな旅館に泊まりたいと思った。
それからも長い間、死ぬまでに一度でいいから、あんな旅館に泊まりたい、
うまい料理を食べ、すばらしい景色を眺めたいと夢みていた。
しかし、それが実際にできるようになったころ、気がついてみると、
そんな旅行に何の興味も持たなくなっていた。
そして、一度も行くことはなく、

おそらく今後も行くことなく一生を終えてしまいそうである。
そこで、なぜ、あの竜宮城の夢は消えてしまったのか、考えてみた。
ひとつは、私が国内旅行より先に海外旅行に熱中してしまったことがある。
ひとつは、国内旅行で上等の旅館の場合、
女中さんへのチップをどうするのかについて考えるのが、
鬱陶しかったことがある。
だが、決定的なことは、建物への憧れが完全に消えていたことである。
修学旅行に行ったころの時代は、いまにして思えば、
日本国中、汚い建物ばかりだった。
学校も古い木造、市役所も古い木造、駅舎も古い木造、
アパートも古くて汚い木造…
木造でないコンクリートの建物は罅割れて鉄骨の錆が垂れて、

さらに汚かった。
そんな時代に、汚れひとつなく、色彩鮮やかにそびえる旅館は、
まさに夢の御殿だったのである。
ところが、街中のあらゆる施設が近代的になり、
それなりにきちんとしたものになってくると、
竜宮城の値打ちは相対的に下落せざるをえなかった。
図書館や美術館のように誰でも入ることのできる施設、
誰でも憩うことのできる施設も昔に比べれば立派なものになった。
無料、もしくは無料に近い料金で優雅に時をすごせる場所が、
いくらでもできてしまった。
そうなると、なにもわざわざ、遠くまで出かける必要もなくなった。
もちろん、景色と料理と温泉湯治だけは、現地に行かないと、
どうにもならないのであるが、
竜宮城は、恍惚とした憧れの場所ではなくなってしまった。
そして、存在が希薄になってしまったものは、竜宮城だけではなく、
金持ちの持ち物も希薄になった。
映画やアニメに出てくる高級自動車、プール付き大豪邸、自家用ヨット、
自家用ジェットなども、
もてば、どんなに素晴らしいだろうという感じはしなくなった。
持っている人間をうらやましいとは思うが、

恍惚とした憧れや夢は無くなった。
私には、一生縁のないものであるが、
「縁が無くてもいいや、維持管理が面倒くさそう」

という気分になってしまう。
歳をとって物欲がなくなったわけでも、穏やかな心になったわけでもない。
時代が流れると、ステータスシンボルの基準がいつの間にか変わり、
世俗的価値観も変質していくように感じるのである。