私は声を上擦らせながら、小山田の肩に覆い被さっていきました。



「あっ、あっ、あっ……」

 急に躯をしゃちこばらせ、私は荒い吐息を洩らして達してしまいました。プレイを始めてから、二十分しか経っていませんでした。

「イッちゃったもん……。イッたら放して」

 私は自分で勝手に、バイブレーターを局部から引き抜き、床の上に放り投げました。小山田はそれを見て、にわかに不機嫌そうな表情になりました。

「おい。奴隷は自分の意思を、持たない筈じゃないのか」

「ごめんね。でもちょっと、休ませて……」私は息を切らせたまま、床の上にべったりと座り込んでしまいました。

「大丈夫か。医者呼ぶか」

「駄目、医者は、駄目!」私は、激しく首を振りました。、「クスリをやっていることが、ばれちゃうから」

「やっぱりヤクをやっていたのか」小山田はふんと笑って、「でも、放っておくと危険じゃないのか」

「新宿に、知っている医者がいるの。いつもそこで診てもらっているの。クスリもそこで、処方してもらったもんだし……後でそこに行くから、お願い、医者は呼ばないで。このままにしておいて」

 しばらくして、私がいくらか安定を取り戻したのを見て、小山田はプレイを再開しました。中断してもいいと小山田は言いましたが、私のほうが続けてくれと、言いました。交わりの時も騎上位ではなく、正上位かバックで付いてくれと懇願しました。

「上に乗られて、ご主人様の重みを感じたり、踏まれたりするのが好きなの」私はバックで突き上げられながら、そう叫びました。「密着感がないと厭なの」

結局、九十分のプレイで、私は十回以上、絶頂に達しました。



「それにしても、いつもこんなにイクのか」小山田はそう訊いてきました。

「ううん。そんなことないよ。相手が好きなタイプだったら濡れるし。そうじゃなかったら、乾くし」

 小山田はしばらくの間黙って、私が煙草を取り出して吸い始めるのを見ていましたが、

「おい。煙草を吸うときは、客に許可を得てからにしろ。勝手に吸うんじゃない」

「ごめんなさい。煙草を吸ってもいいかしら」

「それから、足を開いたまま座るな。下品だぞ」

 眉をひそめ、小山田は私の足の甲を拳で激しく叩きました。私は呻いて、シーツのなかに足を縮めました。

「薬って、何の薬やってるんだ」

「リタリンよ」

「リタリン……聞いたことがあるな」

「興奮剤の一種なんだけどね。最初、手と脚がだるくなって、だんだん痺れたようになって、しまいにはダダーッとなってたてなくなっちゃうのね。意識はあるんだけど、躯が動かなくなっちゃうの。躯を開くとき、クスリのせいにしちゃうと、気分が楽だから……」

「何だ。躯を開くのは、やっぱり苦しみなんじゃないか。俺のことを好きで、濡らしているんじゃないだろうよ」

 小山田は私の横に躯を横たえ、額を枕につけたまま、そう言いました。その言葉に含まれていた揶揄と挑発に、私はたちまち反応しました。「違うよ」、強い口調で、否定しました。

「快楽が、倍になるのよ。だからすごく疲れるの。苦しみを伴わない快楽なんて、ないわ」

 小山田は顔をあげてちらっと私を見ると、吐き出すように言いました。

「お前は、性欲の強い女だよ。お前がたくさん濡らすから、客が付くんだよ。でも、クスリは止めろ。クスリを利用できるなんて思うな。利用されるだけなんだよ、結局は」

「何かに縋るということは、見方を変えれば、自らすすんで利用されるということじゃないかしら。つまり、好んで服従することよ。あなただって、私を利用しているんじゃないの」

「お前は、俺にすすんで利用されたいと思っているのか」

「誤解しないでよ、小山田さん。私は損得勘定でものを言っているんじゃないの」私は小山田の首に腕を回して、甘えるような声を出しました。

「どんなにキツいことを言われてもいい、殴っても蹴ってもいい。いつも一緒にいてほしいの。傍にいてくれる人がいいの――」

「じゃあ、もし今、俺が他の女に眼を向けたら」

「許せないかもしれない」



 小山田と私の会話は、いつもこのようなものでした。観念的でまだるっこしく、お互いが自分の性に対する価値観を勝手に述べ立て、そして結局は、愛の確認で終わるのです。

 しかし、その言葉には、心に絡み付いてくる触手というものがありませんでした。結局は、打算で繋がれた関係だったと思います。それがわかっていたからこそ、うわべだけの飾り立てた言葉を、いつまでも並べ立てたのでしょう。小山田は私に、月々の手当てとして、五十万の金を渡していました。私以外にも、金で愛人関係を持っている女が、何人かいるようでした。ですから言葉とは裏腹に、私一人が、小山田を独占することなどできないと、心の奥底では思っていました。



 

 拘置所の規則では、医薬品は仮出しできないようになっています。必要なものがあれば、拘置所内の医療機関に申し出て、処方してもらわなければなりません。しかしそれは表面的な理屈で、実際は、いったん取り上げられた所持品は、返してもらえる筈がないのでした。それがリタリンであれば、なおさらのことです。

 拘置所に移されて、四日ほど経った日のことです。恭子がリタリンを処方してもらうときに教えてくれた「頭が締め付けられるように痛い」という症状が、実際に自分にも起こり始めていました。

典型的な禁断症状でした。

 頭の中は、何十匹という蝉が一斉に鳴いているような音が響き、それがずっと熄みません。深夜の四時くらいからそれが始まって、私は看守に訴えましたが、まったく聞き入れてもらえないのです。

「殺される、警察に殺されるわ」私は叫びました。「これは立派な殺人よ。ここの所長を、殺人未遂で訴えてやる」

 畳の上でのたうちまわっていても、誰も助けには来ないのです。そのまま朝を迎え、点呼があり、朝食を済ませ、拘置所内の取調室に連れて行かれました。体調が悪いと訴えても、医師が病気だと診断しない限り、取調べを休むことはできません。



 午後の一時になって、ようやく診察をしてもらえることになりました。いったん独房へと戻り、看守が取調室に呼びに来て、医務室へと連れて行かれるという流れでした。

 血圧を測ると、上が二百十ありました。私は普段から血圧を測ってもらっていることがないので、どのくらいの数値だと危険だということは正確にはわからないのですが、医師の説明によれば、「二百五十を超えて生きているという人を見たことがない」ということでした。

 私は即座に、降圧剤の舌下錠というものを飲まされました。舌下錠とは、薬効成分が胃から吸収されるのでは間に合わないので、舌の下に含み、口内の粘膜から吸収させる薬のことです。つまりそれだけ、一刻を争う、危険な状態だったのでした。

 医師の診断により、私は「横臥許可」というものをもらいました。これは独房内で勝手に横になってもいいという許可でした。立ったり座ったりしているよりも、寝ているほうが血圧は上がらないで済むからです。それでずいぶん、躰には負担をかけなくて済むようにはなりました。しかし私は、そのあともひどいフラッシュバックと吐き気に、苦しめられ続けました。 




リタリンを服用していたのは、SM嬢になってからですから、およそ一年近くになります。処方期間は三ヶ月ということですから、私は明らかにOD(オーバー・ドーズ。麻薬中毒)になっていたのでした。

 考えてみれば、私は、たやすく死の中に踏み込める状況に立っていたわけです。私の逮捕が、私の命を救ったのかもしれないというのは、皮肉なことでした。

 当時の私は、自分の躰が、男達に刺戟を与えるためだけに作られた、精巧な道具に過ぎないと思い込もうとしていました。自分は、心を空白にして、冥い海の底で、ただ触手をうごめかせている生き物のようなものだ――そう感じていました。

そのように考えることによってのみ、私は身の回りを取り囲まれてしまった湿潤さから、逃れられるのです。

そのためには、リタリンが必要だったのです。一日に一錠と決められているリタリンを、多いときでは四錠、服用していたのでした。

独房内の夜の気温は、四度です。


敷布団に掛け布団、そして毛布を三枚貸し与えられますが、あまりの寒さに躯の芯までが冷え切ってしまい、夜は殆ど、寝付けません。さらに24時間、監視カメラで見張られているので、常に居住まいを正していなければなりませんでした。

運動不足のために肥満していくにもかかわらず、鏡で見ると、顔色は蒼褪め、鼻と口許に、しまりがなくなっていました。

消耗と衰弱が、押さえても押さえても、躯のあちこちから、はみ出してくるようでした。

ここで、あまり書きたくないことを書かなければなりません。私は拘留期間に、ひどい中毒に苦しめられていました。


リタリンの、禁断症状です。


私はこの薬を、SM嬢になってから服用し始めたのでした。リタリンが、覚醒剤とほとんど同じ成分でできていること、鬱病の薬としては日本でしか使われていないことは、最初から知っていました。

私にリタリンを教えてくれたのは、恭子でした。

「新宿の西口を降りて、青梅街道沿いに、簡単にリタリンを処方してくれるクリニックがあるから。いいかい、『ずっと頭が、鉄の輪で締め付けられたように痛む』と言うんだよ」

 どうもそれは、鬱病の人の症状らしいのです。私は別に、頭痛持ちではありませんでした。ただ、プレイの最中に濡れにくくなっていると、恭子に打ち明けただけなのです。

すると恭子は、「あんたみたいにずっと指名で埋まっていれば、濡れにくくもなるだろうよ」と言いました。「ローションをしこんでおくだけじゃ、駄目なのかい」

「乾いた後が面倒だから、ローションは。それに、長い時間で予約するお客がほとんどだから、意味ないわ。それに、私自身があまりローション好きじゃないんだ」

「羨ましいね。あたしなんか、自宅待機だっていうのに。M嬢にはMなりの、苦労があるんだね」

 確かに、恭子は売れている女王様とは言えないようでした。女王様というのは、どこか陽性でないと人気が出ないようです。顔立ちは整っているのですが、恭子は色が浅黒く、肌も綺麗ではありません。薄い唇を開かぬほどに動かせ、相手の顔をあまり見ません。


 私は、自分が予約でいっぱいになるのは、「濡れやすい」という自分の体質によるところが大きい、と看做していました。事実、お客は私が、ずっと濡らしつづけ、何度も絶頂に達してしまうことで、深い満足を得るようでした。簡単に言えば、私の反応と昂ぶりの激しさに、興奮するらしいのです。

 それは、小山田も同じでした。あれは、何度目の調教だったでしょうか。確かまだごく初期の頃、五回目か六回目だったと思います。リタリンをやっていることが、小山田にばれてしまったことがありました。


 あれは小山田の部屋ではなく、六本木のSМ専用のホテルでした。両手首を縛られる格好になった私は、プレイ・ルームの壁に嵌め込まれた、巨大な鏡に強く右肩を押し付けながら、

「バイブを入れて」と懇願しました。小山田は床の上に胡坐をかいたまま、私の股間に触れてきました。ペッティングも何もしていないのに、私は局部を、水飴のような濃い愛液で濡らしていました。

「いつも、こうなんだな。前も同じだった」小山田は少し、驚いたように言いました。

「恥ずかしいでしょう。恥ずかしい躯でしょう」と私は答え、膝の辺りをガクッ、ガクッと顫わせました。小山田は私の局部に、バイブレーターを突き刺してきました。

「何が入っているんだ、言え」

 私は答えませんでした。しばらくして小山田は、「答えろ、何が入っているんだ」と再び言いました。

「バイブ」 

 小山田はこの時、不意に、私が何か麻薬のようなものをやっているに違いないと、気付いたということでした(それは、後になって、教えて貰ったのですが)。私の躯は痺れて、思うように姿勢が保てないのでした。あたかも床から、何か得体の知れないものがせりあがってくるかのように、間歇的に膝が顫えるのでした。


 小山田は私をこちらに向かせ、腰を突き出してブリッジのような格好を取れと命令してきました。私は小山田に、さらにバイブレーターで責めてほしいと懇願しました。

「ヨスギ、ヨスギ」そう言って私は、腰を顫わせ続けました。小山田は顔を上げ、

「何だって」と訊いてきました。

「良過ぎ」

「ああ……」小山田は言葉の意味を了解して、「どこが、良過ぎるの」

「クリトリス」

「そうなのか」

 バイブレーターのスイッチを、小山田は強く切り替えていきました。私は「あっ」という声を上げ、突然腰を浮かせました。

「駄目よ。駄目。イッたらどうするのよ」と訴えました。それから、上下にゆっくりと腰を振りながら、

「イキたいの、何度でも、イキたいの」と叫びました。小山田はどういうわけか、汗でびっしょりになった顔を、私の臀部に押し当ててきました。

「厭あよ」

「イキたくないのか」

 再び少しずつ、腰を浮かせ始めた私を見ながら、

「ああ、凄いな」小山田は、感極まったような声を洩らしました。

「痺れてるう。最初から、痺れてるもん」


 抑えていた私の声がまた次第に昂まり、ほとんど悲鳴に近くなっていきました。やがて私は「いろんなことを言って、私を虐めて」と自分から言いました。

「じゃあ臀の穴が天井を向くくらい、高く上げてみろ」

 私は小刻みに回転するバイブレーターを、小山田の前に突き出しました。私の臀が次第に高く上がり、躯が釘のように折れ曲がっていきました。

「もっとだ。もっと高くあげてみろ」

「はい。はい」私の体は途中で力を失い、床に突っ伏してしまいそうになりました。小山田は私の臀部に、掌でスパンキングを、何度も加え、荒々しい声を出しました。

「もっと高くだ。もっと」

 私の躯はまるで見えない何物かに牽引され、吊り下げられていくかのようでした。

小山田の言葉通りに、私が動いている。……ただそれだけのことなのですが、この奇妙な眺めの主人公になっていると思うと、私は突き崩され、痺れるような感覚のなかに牽きこまれていきました。それは、かつて味わったことのない感覚でした。不意に、何かを切り裂くような金属製の鋭い音が耳の中に充ち、膨れあがっていきました。

私は、眼を開けました。



小山田は私の隣に腰掛けていました。早乙女の姿はありません。小山田は、私の顔を両手で挟み、むりやり、唇を押し付けてきました。



「厭。こんなときに、止めてよ」

 小さな声で、叫びました。後ろ手を組まされ、小山田の右手が強引にスカートのなかに滑り込んできました。

「止めてったら!」

 ショーツを、足首までひきずり下ろされました。太腿を割られ、小山田は膝を股間に押し入れてきました。

「俺とお前が愛し合っていた。そこにあいつが――和江が怒鳴り込んできた。あいつは俺達の姿を見て逆上し、出刃包丁を持って、こちらに突進してきた」

 唇が触れ、舌が動き回るのを感じながら、視界の隅に早乙女の姿を認めました。右手に、白い布に包まれた刃物が見えました。

 私は叫びたて、暴れました。小山田の羽織っていたシャツが引き裂け、その隙間から、彼の脇腹が見えました。小山田は私を、激しく蹴り飛ばしました。私は床に転がり、首だけ背後にねじって、小山田と早乙女を見ました。

 早乙女に片手で首筋を掴まれ、私は正面に向き直させられました。犬のように首を振って、早乙女の顔を見上げました。私は早乙女が、唇を微かに顫わせていることに気付きました。しかし細い眼は、何の表情も示していませんでした。



 不意に、肩のあたり、続いて脇腹へと焼け付くような痛みが走りました。

ひるんでしまった私は、再び眼を冥りました。膝をついて、前へと倒れかかりました。早乙女がどういうわけか、驚いたように私から手を離しました。私は鼻を強打し、歯が

折れたように感じました。

 嘔気が、私を揺り動かしていました。

 喚きながら、床の上にこみ上げるものをしたたらせていました。喉が燃えるようでした。瞼は重く、しかし奇妙なことに、瞼の向こうに強烈な光を感じていました。

 どろどろした光が玉となり、弾ける。急激な弛緩が訪れ、私は意識を失っていきました。



「客観的に見て、正当防衛は通用しにくい状況でしたね」

 弁護士の有吉は、そう言いました。私が小山田をかばっていることを、前提としている話し方でした。小山田が姿を晦ましてしまっていたので、私のほうが一方的に罪を被ろうとしているように見えたのでしょう。

「小山田と愛人関係にあっただけでなく、恋愛感情も持っていたのか」と有吉は私に訊きました。

「そうよ」

「小山田のことを、愛していたんですか」

「それは違うわ。私は小山田だけでなく、他の誰も愛したいと思わない」

 そう言うと、有吉は混乱してくるようでした。

「じゃあ、脅されていたと」

「確かにそうだけど、逃げ切ることもできたわ。でも私はそうしなかった。最後のところで」


 有吉に私と小山田の関係を説明するのは、至難の業でした。私と小山田の間には、ねばねばした、薄い、しかし強靭な膜がありました。愛人関係、そしてSMのパートナーでありながら、この膜が破れることは、決してありませんでした。小山田は以前、私にこんな話をしてくれたことがあります。

「ずっと前に、千葉で新婚の夫が、女医をしている女房を殺した事件があっただろう」

 私は、どきりとしました。小山田が自分のことを言っているのではないかと思ったからです(しかし女医殺しの話は、実際にあった事件でした。ずっと後になってから、事実だということを知ったのですが)。

「あの事件はあれだってな、夫の給料が十二万で、妻は夫十五万払って、勉強を続けていた。それで八千万の家に住んでいたっていうんだからね。これはフィクション以外の何物でもないんだよ。生活そのものが、嘘なんだから。夫も妻も、その嘘に耐え切れなくなって、互いに相手を攻撃しあって、破局を招いたんだと思うね。……俺の言っていることがわかるか」

「人間は、自分の生活があまりにもフィクションであるということには、耐えられない動物だということでしょう」と私は言いました。

「そうだよ。普通の人はそうなんだよ。でも変態は逆なんだ。フィクションで自分を塗り固めていないと、気が狂いそうになってくるんだよ――」


この話を有吉にしても、何も伝わりませんでした。小山田も結局、ねばねばした膜を、自分で破ってしまったのです。嘘の重みに耐え切れず、潰されてしまったのだと、今となっては思います。