自我があるためには自分と他人を分ける判断が必要
私は誰々だという時、私たちはその判断基準を信じている
その判断基準を手放すことで、自我から解放される
自分はダメだと思う時
どうしてダメだと思うのかを自分に問いかけてみる
ダメじゃない自分になることではなく、そもそもダメがない世界を作ることができる
それが自由な世界
自分が何かになるのではなく、分け隔てることのない世界
平和な世界を作ることができる
自我があるためには自分と他人を分ける判断が必要
私は誰々だという時、私たちはその判断基準を信じている
その判断基準を手放すことで、自我から解放される
自分はダメだと思う時
どうしてダメだと思うのかを自分に問いかけてみる
ダメじゃない自分になることではなく、そもそもダメがない世界を作ることができる
それが自由な世界
自分が何かになるのではなく、分け隔てることのない世界
平和な世界を作ることができる
あらゆる問題、悩みの背景には自我の問題、つまり自分と他人を分けて考えているということがあると言える。
自分が何ものであるかという定義のこと、アイデンティティーのこと
私たちはたくさんのアイデンティティーを持っている
私は男だとか、私は会社員だとか、父親だとか、日本人だとか、ニートだとか
自分はこういうものだと思ってるんだけど
どうして自我を持つようになったかっていうと
そこには根拠があるから
私は男だと言えるのには根拠がある、日本人だと言えるのにも根拠がある
じゃあその根拠とは何か?
それは判断のことである
私は男だというためには、それを判断しなければいけない
その判断を誰が行ったかっていうと
おそらく犯人は産婦人科医
私たちは生まれた時にはすでに、性別を判断されていて、あなたは男だとか女だとか教えられる
男として生きるのか?女として生きるのかを選択する自由を多くの場合与えられない
そのことによって、一定数の人が悩み苦しむことが想定できるのだけでど
実際には私たちはこの問題に無知であることの方が多い
つまりお男として生まれてきた人が女として生きる可能性があることを想定しきれていないため
選択の自由を奪って、本来その人が望んでいる生き方がだきないようになってしまう。
すべての人が幸せを願っていて、ほとんどの親が子供の幸せを願っているのに
実際には不幸になってしまうのが多いのはこのためである
私たちは
現実から逃げてはいけないと信じています
現実から逃げて幸せになることはないと信じています
現実の中に幸せがあって、その外側は地獄だと思っています
現実に幸せに生きている人でさえも
それが現実の中で生きることを選んだ結果だと信じていたりします
本当にそうでしょうか?
現実とはなんでしょうか?
自分が現実に縛られていると信じることが
不幸なことなのではないでしょうか?
現実とは幸せの形であって、一見幸せそうであったり、不幸そうであったするだけ
ではないでしょうか?
もしそうだったら
現実から逃げ出すことは全然悪くないわ けです