これは僕が小学生の頃の話である。
僕が幼少期を過ごした町は原子力研究所の労働者団地で、巨大な灰色の長方形の集合住宅が何十と並び、迷いこむと無限に同じ場所をぐるぐると回ってしまっているような、二度と出られないような、そんな錯覚を起こしてしまうようなつくりであった。
巨大な墓石にも見えるアパートを下から見上げると、アパートのベランダには、僕と同じ小学校のたいそう服がはたはたと風に揺られ、プラスチックのプランターから何かの植物が太陽に向かいその触手のような蔦を伸ばしていた。
僕たち小学生は夏休みに入ったばかり。
アパート郡には人の気配は無く、郵便職員の配達のバイクの音がどこからともなく聞こえてくる。
僕は自転車でアパートの間の道を走り、いつもの公園を目指した。
そのアパート郡のはずれにある小さな公園が僕とコウちゃんのいつもの待ち合わせ場所。
その公園には特別に変わった遊具があるわけではなく、一本の大きな木とジャングルジム、すべり台とその下に砂場があるだけの本当に小さな公園であった。
「ここだよ!まぁちゃん」
僕をまぁちゃんと呼ぶ男の子がすべり台の上で大きく手を振っていた。
僕は自転車のスタンドを立てるのももどかしく、その場に自転車を叩きつけるように倒すとすべり台にかけよった。
「コウちゃん!」
僕たちは友達同士。
その公園の中では、僕たちはいろいろな世界を旅することができた。
恐竜の世界や、悪の科学者が支配する世界。公園の中に殺人者を追い詰めたり、そこは素晴らしい宝物が隠された宝島だったりした。
僕たちはいつもヒーローで、必ず世界を救うことができた。
いつもいつも二人は一緒だった。
夏休みという無限に続く休みの中で、僕たちは自由に公園を彩った。
コウちゃんはいつも、公園のすべり台の上で僕を待っていて、その逆に僕がコウちゃんを待ったという記憶は、無い。
遠く放送塔から『夕焼け小焼け』が聞こえてくると、僕たちの世界は幕を下ろした。
「コウちゃん、俺そろそろ帰るよ!」
世界の終わりは決まって、夕焼け小焼けと、僕のこの言葉だった。
「・・・でも、まだ宝物を見つけてないんだよ?」
「明日また探せばいいじゃないか。」
コウちゃんも僕も、明日同じ世界が訪れることが無いということは、言葉にしないまでも、なんとなく感じていた。
「でも、お母さんに怒られるから・・・」
「・・・うん」
「ごめんね。」
「わかった!また、明日ね!」
僕は、さっきまで巨大な帆船だったすべり台を滑り降り、さっきまで海だった、人食い鮫がいたはずだった砂場に下りた。
そして、自転車にまたがると、家に向かってこいだ。
途中何度も振り返ると、コウちゃんはすべり台の上で、僕を見送りながら手を振っていた。
空が少しだけ暗くなっている意外は朝と何も変わらない光景だった。
それが、毎日だった。その毎日は永遠だった。
しかし、僕の次の日は、家族で田舎に行く予定があり、コウちゃんと僕の世界に旅立つことはできなかった。
僕はそれをコウちゃんに伝える事ができなかった。
明日は遊べない。
と、コウちゃんに宣告することが怖かった。
「二度と会えないよ。」
そう告げてしまうような気がしてならなかったのだ。
そして、田舎で三日をすごし、僕はまた自転車をこいで、僕たちの世界に向かった。
その日、コウちゃんはいなかった。
公園のすべり台に上がり、僕の家のほうを見た。
コウちゃんがいつも、僕に向かって手を振った目線であった。
今日は僕がコウちゃんに手を振るつもりだった。
しばらく待ったが、コウちゃんは来なかった。
時間にして、30分位だっただろうか。
「まぁちゃん」
と声をかけられた。だが、その声は遠く、力無く聞こえた。
「コウちゃん!」
人気の無い巨大なアパートに僕の声がこだました。周りを見渡してもコウちゃんの姿は無い。
「まぁちゃん」
力の無いコウちゃんの声と無機質なアパートに囲まれ、僕は少し怖くなり、急いですべり台を滑り降りた。
所在が分かった。
コウちゃんはアパートの一室から、顔を出してこちらを見ていた。
「コウちゃん!遊ぼう!俺、おばあちゃん家に行ってたんだ!」
「今日は遊べないよ・・・」
コウちゃんは怒っているのだろうか。僕は黙って三日も遊ばなかったことを後悔した。
「どうして?怒ってるの?」
コウちゃんは何も言わなかった。
「ごめんよ、コウちゃん!昨日まで、おばあちゃん家に行ってたんだよ。」
もう一度僕は同じ事を言った。
「まぁちゃん、今日は俺ん家においでよ!」
僕は動揺した。
「え!コウちゃん家で遊ぶの?」
「今日は、お父さん早く帰ってくるから、外に出られないんだよ。」
子供の僕には、理由なんてそんなことはどうでも良かった。
コウちゃんと今日も遊べる。しかも、今日はなんと違う世界で遊べるのだ。
僕は嬉々として言った。
「行くよ!行く!」
「じゃあ、俺の家まで来てくれよ!」
コウちゃんの家は公園を真下に臨むアパートの四階だった。
無機質なアパートの入り口は暗く、本当に墓所に入っていくように思えた。
コンクリートに囲まれた階段は細く、僕の足音が僕の周りに響き、まわった。
僕は一気に四階まで階段をかけ上げると、長い廊下に目をやった。
果てしなく長い廊下の途中、ゆっくりと鉄の青い扉が開いていく。
果てしない廊下に、途中、青の壁が現れ、その壁のちょうど真ん中、ドアノブのあたりからコウちゃんの顔が恐る恐ると現れた。
「あがりなよ!」
コウちゃんは僕を招き入れると、最初に言った。
「言っとくけど、お父さんが帰ってくる前にさよならだよ?」
「分かったよ!」
今思えば、帰ってくる時間を気にもしなかった子供の浅はかさだった。
遊びに夢中になってしまう僕たちにとって、世界が終わるその時間を知らせるものが無いと言うことが、こんなにも不幸になるとは想像もつかなかったのだ。
その日、コウちゃんの家は、敵に攻め込まれた戦場になった。
僕は、戦友のコウちゃんとはぐれ、敵との遭遇を恐れた一人の兵士になった。
僕とコウちゃんのポケットには、タバコの箱のトランシーバーが入っていた。
僕の手には靴べらの形の剣が握られていた。
「コウちゃん!応答せよ!銃の弾が無くなってしまった!助けてくれ!」
僕はお風呂場に隠れ、戦友のコウちゃんに自分のピンチを知らせた。
「まぁちゃん!ダメだ!敵の攻撃が激しい!助けに行くまでもうちょっと待ってくれ!」
「分かった!コウちゃん!今助けに行く!今どこにいるんだ!」
「押入れだ!」
「分かった!」
と、僕がお風呂場を出ようとしたとき、玄関のドアが開く音がした。
「コウジ!」
と、コウちゃんを呼ぶ声がしたと同時に、「チッ!」
という舌打ちが聞こえ、僕は動けなくなった。
お父さんが帰ってきた。
タイムリミットはいつの間にか過ぎていたのだ。
乱暴な足音がして、コンロの火をつける音と、タバコの臭いがした。
部屋はとても散らかっていた。
コウちゃんはどうやら気がついてい無かったらしく、大声でまだ僕を呼んでいた。
「まぁちゃん!応答してくれ!まぁちゃん!」
コウちゃんはまだ僕たちの世界にいた。
僕は、お風呂場のドアをそっと開けて、台所に目を向けた。
コンロの上にはなぜかフライパンが火にかけられ、僕が想像していた、僕を追い詰めていた敵と少しだけ違う大きい人影を見た。
すると廊下の奥のリビングから、コウちゃんが飛び出してきた。
手には手投げ弾のつもりでお父さんのものであろうお酒の瓶が握られていた。
大きな人影を見たコウちゃんは氷ついた。
顔色が見る見る真っ青になっていく。
「コウジ、何やってやがんだ。なんでこんなに部屋が散らかってんだ?」
コウちゃんは、何も言えない。
ただ、下唇をかんで、うつむいている。
「コウジ!」
と、もう一度乱暴に呼ばれたと同時に、コウちゃんはビクと痙攣し、お酒の瓶を落とした。
お父さんはコウちゃんのポケットに手を入れると、トランシーバーを取り出した。
タバコはくしゃくしゃにつぶれていた。
ポケットから手を抜きざま、お父さんはコウちゃんの顔面を殴打した。
言葉にならないような大声を上げると、お父さんはコウちゃんの胸倉をつかむと台所に引きずっていった。
台所から、お風呂場はドア一つはさんで隣の部屋である。
お父さんは、僕には気づいていないようで、ただ乱暴な言葉を発しながら、コウちゃんが倒れるまで殴打した。
倒れると、足蹴りを何度も繰り返した。
コウちゃんは泣かなかった。
痛くないわけは無く、ただ我慢をしていた。
ごめんなさいとも言わなかった。
しばらく鈍い打音が続いた。僕はお風呂場から、逃げ出そうとそっとドアを開けた。
そのときに見た光景はお父さんがフライパンを持ちコウちゃんの胸倉をつかんでいるところだった。
ジュウという音。
肉がこげる臭い。
初めてコウちゃんは悲鳴を上げた。
喉が擦り切れるような悲鳴だった。
そして、ドアが静か開いていき、立っている僕と目が合った。
コウちゃんは、僕に向かって言った。
「熱くないんだよ。まぁちゃん。熱くないんだ。」
僕は、金縛りが解けたように、走り出し玄関に向かった。
お父さんは僕には目もくれなかった。
玄関のドアを開け、階段を駆け下りた。
自転車に飛び乗るといつもの帰り道を全速力でこいだ。
家に逃げ帰るとまだ三時半。
いつもの時間には程遠く、まだ、いつも僕たちは探検をしている時間だった。
その夜、僕はポケットのタバコを親に見つかりひどく怒られた。
しかし、殴られることはなかった。
僕たちはいつも五時半までヒーローだった。
どんな敵とも戦っていた。
コウちゃんと僕は、見ている敵の形ははたして同じだったろうか。
僕の想像していた敵とコウちゃんのお父さんは少し違っていた。
でも、僕はその世界に出かけることができなくなった。
コウちゃんの悲鳴が、世界の終わりを告げたのだ。
夏休みが終わり、学校が始まったが、僕はコウちゃんに会うことができなかった。
罪悪感からではない。
コウちゃんは学校に来なかったのだ。
卒業までずっと。