本日は、蔦之助が梅玉さんのところの梅乃さんから頂戴して、

私にくれた古い新聞の切り抜きを、皆さまにご紹介したいと思います。

昭和39年9月15日の東京新聞の夕刊です。



『来月の東横ホールは若手歌舞伎で「忠臣蔵」の通し上演。

第三の若手といわれている市川男女蔵、尾上丑之助、坂東亀三郎、尾上左近らが大役にいどむ。

気が気でないのが、それぞれのおやじ達(男女蔵の父・左團次、丑之助の父・梅幸、

亀三郎の父・羽左衛門、左近の父・松緑)で、

十五日から歌舞伎座けいこ場で始まったけいこに先立ち、忙しい舞台の間をやりくりして、

松緑の楽屋に一同を集め「しっかりやらなきゃダメだぞ」と気合いを入れたくらい。

おとなの河原崎権十郎が大星由良助で、男女蔵が高師直、

丑之助が五、六、七段目のおかると塩治判官、亀三郎は桃井若狭助と平右衛門、

左近が五、六段目の早野勘平という配役。

梅幸は「自分の舞台より、本当のところ、来月の息子たちのことで気もそぞろですよ。」と、

今月の初日に告白していたくらい。

松緑は「子ども子どもと思っているうちに、からだばかりデッカクなりやがって気持ち悪いよ。

だから逆にこういうのに凝ってんだ。どうです、かわいいでしょう。」と、

楽屋でドイツ製の豆粒のような電気機関車を走らせて見せるが、これはむろん松緑独自の照れ隠し。

「権三と助十」の舞台を終えて楽屋へ帰ったばかり、

まだ玉のような汗が吹き出ているのにフロへもはいらず、

「さ、みんな集まれッ」と写真撮影にも大サービス。


昭和十六年、歌舞伎会という若手俳優の勉強会があって、

現團十郎、松緑、幸四郎、羽左衛門が交代で由良助と平右衛門を、

梅幸と歌右衛門がおかると力弥をやって、

菊五郎、先代幸四郎、吉右衛門らおやじ達に、きびしくきたえられたのが、

どんなに現在役に立っているかと思うと、力がはいるのも当然だろう。

「播磨屋の型があり、高麗屋の型あり、音羽屋の型ありで大変だったが、

そういうものがぶつかりあって歌舞伎の芸はみがかれてゆくのですね」(梅幸)というように、

今度もおやじ達も大いに意見をたたかわすことになりそうだ。

「舞台げいこは少なくとも二日間はやらせなきゃ」というおやじ達の強い要求で、

過去十年間、舞台げいこ一日主義でやってきた東横ホールは、舞踏会や会議場として貸してあるので、

九月二十九日までスケジュールがいっぱいになっているので、頭をかかえており、

「いい舞台をお見せするために、十月一日初日を二日にずらす案も出ています」といっている。』




写真の下には、左から市村羽左衛門、尾上梅幸、河原崎権十郎、尾上丑之助、尾上左近、

尾上松緑、市川男女蔵、坂東亀三郎と書いてあります。



皆さまには、不鮮明でよく見えないと存じますが、

劇団の家庭的な環境やおじさん達の優しさが滲み出ている、いい写真です。

しかし、私が24歳になる少し前の姿なのですが、

ガリガリに痩せて、ひょろひょろしているのが、我ながらかなり笑えます。

この後、三十歳になる手前位で、煙草をやめて、90㎏まで太ったのですから極端ですよね。


さて、この記事になっている東横ホールでの「忠臣蔵」ですが、

こんなに力を注いでくれたおじさん達に怒られそうですが、

肝腎の公演のことは、あまりよく思い出せません。

でも、菊五郎さん達みんなで、公演中にお世話になっている先輩方をご招待して、

おやじ達のツケで、柳橋の花柳界に繰り出し、ドンチャン騒ぎをしたことは鮮明に覚えています。

みんな若いだけに、良い着物で格好をつけて颯爽と出掛けたのですが、

帰りは雨で、宴会で散々酔っ払った後だけに、滑って転んだりしてぐちゃぐちゃになりました。

今でも笑いがこみ上げてくる、若き日の楽しい思い出です。



追伸

次の日、蔦之助が鮮明に撮れた写真をくれました。



こちらの方が少しはよく見えますか?