17日に村上春樹の短編集が発売されました。
『一人称単数』という奇妙なタイトルですが、8つある短編小説の最後に書き下ろしとして「一人称単数」が書かれています。まだ私は全編読み終えていません。書評家ならすべてを読み終えてから書くべきことでしょうが、2018年7月号の「文学界」に発表された「石のまくらに」という作品の感想を書きたいのは性急な一読者の好奇心と捉えて頂いても構わないことです。
「僕」という主人公が大学2年の時、アルバイト先で知り合った女性がいました。今では名前も顔も定かではありません。しかし彼女がアルバイトを辞めた時に、それは12月半ばのことで、これは覚えている限りの彼女の記憶として案外重要と思われます。「僕」も彼女も中央線を利用していて帰り道が一緒になります。「僕」は阿佐ヶ谷、彼女は小金井に住んでいて、「僕」が阿佐ヶ谷に着き下車しようとすると彼女が「ねえ、もしよかったら、今日きみのところに泊めてもらえないかな?」といわれます。
それほど親しくない男の下宿に平気で泊まれる彼女の態度に「いけど、どうして?」と問い返す「僕」。
「小金井まで遠いから」というのが彼女の答えです。(これは明らかに年下の青年を甘くみている女性の誘惑か?)一夜限りの思い出ですが「僕」にも真実味がなかった。女性には時にはこんな気分があると書かれていますが、すべての女性がそうだとは限らない。思ったにしても実行する女性は少ないでしょう。
実は彼女歌人です。8つの短歌が紹介されています。「ちほ」というペンネームで歌集「石のまくらに」を出しています。タコ糸で綴じた薄いシンプルな冊子です。
「あなたと わたしって遠いの でしたっけ? 木星乗り継ぎ でよかったかしら?」
「石のまくら に耳をあてて 聞こえるのは 流される血の 音のなさ、なさ」
こうした短歌を書く女性です。男女の愛と死をテーマとしています。
「僕」と彼女の奇妙なセックス。彼女は他の男の名を叫ぶかもしれないと「僕」いう。それは構わないけど声が大きいと隣の部屋に筒抜けだからとタオルを彼女に渡す。「僕」と彼女には恋愛関係がないから平気なわけで、そもそもこのふたり一夜限りの「遊び」なのです。ここで生きて来るのが12月中旬の寒い冬となります。
歌集には42首の短歌が収録されて、「僕」は8つの短歌を記憶しています。
「もちろん立派な文芸作品のようなものを、そこに期待していたわけではない。前にも言ったように、ただ少しばかり個人的な興味があっただけだ。僕の耳元で、タオルを噛みしめながらどこかの男の名前を叫んでいた女性が、いったいどのような短歌をつくるのだろうと。でもその歌集に目を通しているうちに僕は、そこのある短歌のいくつかに心を発見することになった」
それが8つ提出された短歌ということです。
この8つには生々しい愛欲をみることはできません。しかし最後に紹介されている短歌にありました。
「たち切るも たち切られるも 石のまくら うなじつければ ほら、塵となる」
男女の愛が裁かれました。不倫した男を愛した断罪です。石の枕で首を刎ねられるという凄惨なシーンが浮かんできます。もしかしたら心中を望む彼女の思いかもしれません。
儚い思いが美しいのではなく、限りない美しさを死に託す。これが愛欲の姿かもしれない。いま「僕」はこの齢になってようやくその事がわかってきた。顔も名前もわからない「しほ」という歌人のこの歌集を、忘れてしまった記憶から引き出しています。それが「どれほどの意味や価値があるものか」それは「僕」にもわからないのです。
追記:久々に春樹氏の文章です。『猫を棄てる』は父と飼い猫の関わりある思い出をエッセイにしたもので、そこにはプライバシーを配慮する書き方でした。なぜなら母親が健在だからです。その点この「石のまくらに」は著者の自由な想像力で描かれています。