漱石の『薤露行』の成り立ち | さむたいむ2

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江藤淳の『漱石とアーサー王傳説』をいま読んでいる訳ですが、作品の成り立ちについて深く考えされます。この学位論文は夏目漱石の「『薤露行』の比較文學的研究」といった副題があり、さらに「父上に」という献辞が付いています。
学位論文に「献辞」とは珍しいと思いますが、もしかしたら「東京大學出版會」から刊行された際にこの「父上に」と付けたのかも知れません。いずれにしても学位論文をいままで読む機会などなかった私にとって驚きの多い本であることは確かです。
 
さらに研究者の苦労はその読書法が私とは大きく異なり、初版、再版、三版とすべてに目を通しているのです。当然と云えば当然のことですが、こうなると作品の「面白さ」は薄れ、成り立ちへの関心がいくのではないかと危惧するばかりです。さらに
夏目漱石の全集は岩波書店版と筑摩書房版があり、それぞれ編集者も異なり、初版、再版と重ねて行くうちに表記が変わってくる場合もあります。
 
この『薤露行』という作品の漱石自身の原稿が残されていないとのことで、初出である「中央公論」の雑誌、さらに『薤露行』を収録した『漾虚集』(大倉書店)にまで目を通すという念の入れようです。また『漾虚集』の売行きが好調のため初版での誤字誤植が訂正されずに再版されたという現状を漱石自身嘆き、「訂正三版」として新たに版を重ねたとあります。こうなると読書の楽しみなど何処かへ消え失せ、まさに比較文学的研究などという学者の眼差しは、それぞれ出版された本の隅から隅まで探るという事への情熱に費やされ、肝心の「楽しみ」など何処へいったものでしょう。
 
唯一、「文学博士」取得のための労力であり、それは夏目漱石自身嫌ったものであることを思い浮かべると、江藤淳がなぜこの論文を書いたものかという疑問も浮かんできます。果たして漱石研究の権威であることの保証を求めたのでしょうか。
江藤氏は『夏目漱石論』をはじめ『漱石その時代』など漱石評論の第一人者です。学位を取得することは文芸批評とはまた別ものとしても、それは江藤氏の生き方の問題で私がとやかく言う事ではないにしても、夏目漱石と対比して考えると作家としての姿勢が見えてきます。
 
漱石は時の文部省から「文学博士」の称号を受けながらそれを辞退しています。彼にとって大学の講師をしていたものの、それは文学研究以上に大事なものがあったのです。教師はあくまで生活の糧で、作家活動に専念するために朝日新聞社へ入社したわけです。彼にとって英国留学は確かに文部省から「英国文学、あるいは英語教育の研修」を依頼され受けたものです。それは日本で文献を漁ることだけでは果たせないものがあったからで、2年半必死の思いの留学でした。しかし秀才漱石にとって留学で得られるものなど多寡が知れていて、多くの学者はみな「英国帰り」という看板が欲しく、お金に余裕のあるものは学問というものより「紳士の修業」のための遊学であったそうです。
 
漱石にとって文学研究は唯一『文学論』で完了し、彼は「人生如何に生きるか」を作品のなかで問いかけ、生涯問い続ける作業としての「文学」を目指したのであって「権威」のなど必要のないものであり、「文学博士」など眼中になかったのです。
江藤淳は漱石と違い「文芸評論」を書く傍ら、慶應大学の教授として生涯を貫いています。自ずと目指すものが違っていたのでしょう。(この対比はいまは問題でありません)
 
さて江藤氏の論文を読み進めていくと、この『薤露行』が『漾虚集』という作品集のなかでひと際目立ったものであるということです。「カイロコウ」ということから旅行記を思わせますが、漱石が英国留学から学んだマロリーの『アーサー王物語』を、その「伝説」は18世紀末から19世紀にかけてヨーロッパ全土を蔽った「ロマン主義」出来上がったものであり、西欧文化の一輪として、明治期の日本に根付かせるために「雅文体」で描いたものなのです。
 
この作品集は『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』『琴のそら音』『一夜』『趣味の遺伝』で構成されているのですが、なかでも一際『薤露行』が目立つのは「カイロ」という「貴人の棺を送る挽歌」であり、エレーンとシャルロットという二人の女の死をイメージしたものであって、漱石はあえて難解な文章にすることにより何かを封印しているのではないかと思わせます。物語というより「叙事詩」の形態をもち他の作品にはない奥行きがあります。しかしその難解さは一読では理解できないもので江藤氏の論文を参考にするしか、今の私には術がありません。
 
実をいうとどこまで読むかです。マロリーの『アーサー王物語」まで深入りするかです。それは『薤露行』が理解できるまで考えてみましょう。それはまた途中で投げ出す可能性もあることですが・・・・。