みたび、「かげろふの日記」 (立原道造を探して 49) | さむたいむ2

さむたいむ2

今日も元気で

イメージ 1
 
堀辰雄の「かげろふの日記」は平安時代の975年頃書かれた「蜻蛉日記」から題材を持ってきています。上中下の三巻からなる日記文で261首の和歌が含まれています。藤原道綱の母が書き、女流作家の先駆けでもあり、あの「源氏物語」にも影響を与えたと云われています。
 
堀辰雄自身「七つの手紙」という作品のなかでこの「かげろふの日記」について語っています。実はこの「七つの手紙」は後に彼の奥さんになる多恵子夫人に送った手紙で、
「愛せられることは出来ても自ら愛することを知らない男に執拗なほど愛を求めつづけ、その求めむべからざるを身にしみて知るに及んではせめて自分がそのためにこれほど苦しめられたという事だけでも男に分からせようとし、それにも遂に絶望して、自ら苦しみそのものの中に一種の慰藉を求めるに至る、不幸な女の日記せす」と説明しています。
そしてこの激しい女性の生はいつまでも輝きを失せず、私たちの生は私たちの運命より以上のものであることを、そしてそれが「風立ちぬ」以来の追い求めていたテーマであると語っています。
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この「かげろふの日記」を書いたのが信濃追分にある「油屋」であり、ここは中山道の旧本陣で江戸時代からある古い宿です。昭和12年11月に隣りの家畜小屋からの出火で全焼し、堀はこの原稿を出版社に送り届けに外出中で無事でした。しかしこの資料やリルケの本などが灰となり、それでも落胆することなく再び書きだす意欲を持っています。しかし同宿していた立原道造は火に取り囲まれ危ういところで救出されました。
 
私の興味はいつ立原が「風立ちぬ」という題の堀辰雄論を書いたかです。年譜では翌年昭和13年5月となっていますが4月17日に堀辰雄は多恵子夫人と結婚しています。また立原はお祝いのプレゼントのレコードを銀座で探しています。交友はずっと続いていたものと思います。この「風立ちぬ論」が堀との決別の書であると広くいわれていますが、私にはどうも納得がいきません。むしろ立原は自らの道を見つけ堀もそれを認めていると思うのです。それはまた雑誌「四季」が主宰していた堀辰雄から離れて行っていることも伺われます。師の周囲にあつまった青年たちの独立を師自身喜んでいたことでしょう。ただ「肯定するがゆえの別離」といった立原道造の気負いは青年の「自信」とともに師への「甘え」があったと思います。
 
それはまた「油屋」が焼失した時を境に起こったことでしょう。それから一年立原は自分の生をかけて新たな道を探しに盛岡へ、そして長崎へと旅立ちました。皮肉にもそれが死期を早めることになろうとは立原自身気づいていなかったのでしょうか。
 
イメージ 4
 
追記: しばらくブログをお休みします。たぶん一週間くらいで復帰します。「立原道造を探して」の追い込みです。堀辰雄を読んでいたら様々なことが分かってきました。決して遠回りではなかったはずです。しかしそろそろ立原道造を見つけ出さなくてはなりません。勝手をお許しのほど。ありがとうございます。