立原道造を探して 30 「溢れひたす闇に」 | さむたいむ2

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今日も元気で

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美しいものになら ほほゑむがよい
涙よ いつまでも かわらずにあれ
陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき
あのものがなしい 月が燃え立つた
 
つめたい! 光にかがやかされて
さまよひ歩くかよわい生き者たちよ
己(おれ)は どこに住むのだらう・・・・答へておくれ
夜に それとも晝に またうすらあかりに?
 
己は 嘗てだれであつたのだらう?
(誰でもなく 誰でもいい 誰か・・・・)
己は 戀する人の影を失つたきりだ
 
ふみくだかれてもあれ 己のやさしかつた望み
己はただ眠るであらう 眠りのなかに
遺された一つ憧憬に溶けいるために
 
詩集『曉と夕の詩』より 「溢れひたす闇に」
 
 
この立原道造の第二詩集『曉と夕の詩』も第一詩集『萱草に寄す』と同しく楽譜集の装丁で発表されました。彼は詩を歌として認識していたのでしょう。どんなメロディ、どんなリズムで歌うかは自由だと思います。でも彼の朗読を聞いてみたい気にさせられる詩集がこの『曉と夕の詩』です。彼の三つ詩集の二つは恋するひとを対象に作ったものです(もうひとつ『優しき歌』があります)がこの第二詩集は純然たるものであって対象を必要としない、彼の詩を正面から取り組んだものであると私は見ています。まるで歌曲集のように10編の詩が配置され、その一つを取り出して語るべきものではないのかもしれません。しかしこうして真夜中にこの詩を何度も読んでいると、なぜ彼が「俺」でなく「己」という文字を使ったかがわかります。「僕」でもなく「俺」でもない。対象が自分自身であるからでしょう。
 
中原中也は自分の書いた詩を紙に書き壁に貼りつけて何度も読んでいたといいます。自分の詩を客観的に眺める為にそうしたのでしょう。彼もまたリズムを大切にした詩人です。しかし立原の場合は原稿用紙ではなくメモ紙、それもそこいらにある包装しの裏にさらさらっと書き、それをあれこれ推敲して最後は楽譜に清書するといったイメージがあります。このふたりの詩人は「四季」の会合に同席しますが、裏では互いに批判し合っています。性格も合わなかったからでしょう。でも詩を音楽として作っている共通点があります。ライバル意識もあったのでしょう。批判しながらどこか自分に似た感性をもったものと認めていたはずです。奇しくも中也が亡くなり、第一回「中原中也賞」をとったのが立原道造です。そして受賞わずかひと月で彼も世を去りました。
 
いま立原の創作集を読んでいます。角川書店の全集では「物語」という括りで扱っていますが、それが何を意味するかが分かりません。ただ「創作」でいいのではと思うのですが「小説」ではないことは確かです。『鮎の歌』を目当てに図書館で借りてきたのですが、たぶん全部読むには二週間では無理でしょう。
彼は詩作と並行してこれらの文章も書いていました。たぶん詩作の延長線上に小説を目指していたのではないでしょうか。しかしそこへ到達するまえに生命が尽きてしまったのです。私は残された創作集のなかに詩人の魂の熾きを探してみます。