1953年、須賀敦子、聖心女子大の題1期卒業生、フランスへ留学。

当時男性でも、珍しかったと思われる留学を果たしたが、なぜかフランスに馴染めない

探しているものが、見つからない。学生の団体旅行でイタリアへそこでローマに向かう

鉄道の中で、イタリアの労働者たちがしゃべる言葉を耳にして、関西人のアクセント

そっくりだと思った。そこから彼女の人生が大きく変わっていった。

少女時代を神戸の芦屋で過ごしたことで、他国で聞く関西のアクセントは、イタリアを

第二の故郷にしてしまったのだろうか。


 イタリア人と結婚、当時の国際結婚は留学と同様、新聞にのったそうだ。

平成に生きる女子ではない、彼女の自分らしく生きるという姿勢は当時の女子には考え

ても、実行はむずかしかったと思われる。強い志を持ってそれを68歳で死去するまで、

貫いた信念の人だと思う。だが、そんなハンサムウーマンな彼女が書いたエッセイの

数々は、彼女の過去の体験であるにも関わらず、エピソードとゴシップはみずみずしく

 今を生きているようだ。2008年にBS朝日「イタリアへ 須賀敦子 静かなる

魂の旅」という番組を皮切りに今もなお、女性のみならず、男性ファンが増えている

と聞く。2010年の新聞の切り抜きをスクラップしているが、須賀敦子 没後12

年今なおブームと見出しが書いてある。親しい友人でもあった松山巌が彼女のことを

「須賀さんは求道者という感じではなく、陽気で明るい人だった。孤独であることが

淋しさにつながるのではなく、むしろ明るさにつながる人でした。その力が読者を強く

励ますのだと思う」

また、「須賀敦子が歩いた道」を企画した当時20代だった新潮社の編集者の女性は

「日々を歩いている私たちにも、そのように生きてもいいのよという肯定的なメッセ

ージをいつも届けてくれる」と書いてある。

61歳で書いた、「ミラノ 霧の風景」はいきなり女流文学賞と講談社エッセイ賞を

受賞し、インタビューで「エッセイを超えたものを書きたいとずっと思っていました」

と答えている。

 ワタシは今まで、随分とエッセイを読んできましたが、彼女のエッセイを読んで

声がつまってしまったという感じでした、息をつめてページをめくり、泣いては

読み、読んでは泣いて、なぜこんなにもどきどき、わくわくしたかというと、それ

は彼女の文章の書き方にあったと気づいたのです。もちろん彼女の人間としての

純粋さや教養の深さも、文章のあちこちからにじみ出ていますが、それが全く

押し付けがましくなく、さらっと平明にさりげなく、しかしイタリア的であるのです。

 
 貧しい生活の中の明るさ、ユーモア、そのエッセンスをたくみにちりばめた文章。

ミラノ時代に彼女はイタリア語訳の近現代日本文学選集を書いています。

またイタリア戦後文学の潮流をつくった文学史上の文学者との交流もあります。

 本人も文学者であるわけです。

まだ続くなぜこのエッセイに惹かれるのか?わたしなりの考えを明日は書きたい

と思います。




 須賀敦子、若い頃の写真も出ています。しっかりしたお顔していますね。