ロシア降伏
西郷の大山は総司令官

12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する[100]。 正午、満州軍司令部から旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は

大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した[101]。

12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った[101]。

12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した[102]。

12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた[103]。

12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこれらに対しても28センチ榴弾砲砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。砲弾は戦艦の艦底を貫けなかったが、多くの艦艇は自沈処理がなされた[注 13]。5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫が誘爆着底、翌日には戦艦レトヴィザンも着底し、8日にペレスヴェート、ポベーダの両戦艦も防護巡洋艦パラーダと共に着底した。9日には装甲巡洋艦バヤーンが同様の運命をたどった。大型艦で生き残ったのはセヴァストーポリのみとなり[104]、8日の深夜に港外に脱出した。

この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満州軍司令部へ戻った[103]。

脱出して旅順港外にいた戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対しては、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった[105]。

要塞東北面突破とロシア軍の降伏 編集

「水師営の会見」乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した