「この世界の片隅に」 のシーン毎の感想、考察 | BABYMETAL、サクラメントキングス、他もちょっとのブログ

BABYMETAL、サクラメントキングス、他もちょっとのブログ

音楽(BABYMETAL)とNBA(キングス) 主に書きます。
他もたまに書きます。

やっぱりさ、沢山の人に紹介して観てもらったらさ、色々教えてあげたくなるよね。
だからここに思い付いたことを書き留めておこう。

まず冒頭の子供時代のシーン。
ここは全力で郷愁の念を誘うシーンだと思う。兄に代わって父の仕事を手伝い、帰りに兄と妹にお土産を買って帰る。これほどまでに現代では失われた家族の風景を思い起こすシーンも無いよ。
で、ここで舟で乗せてって貰うんだけどその舟の叔父さんがほんと何言ってるか解らない。
でもさ、子供の頃何言ってるか解らないおっちゃんいたよね。
ここの演技の意図はそうなんだと思う。
で、オープニングテーマとのマッチングも素晴らしいのだ。「白い雲は 流れ流れて」は過ぎ去った時間を想起させるし、「悲しくて悲しくて とてもやりきれない」という正にそのままの気持ちの代弁。

そしてタイトルと供に描かれるのはたんぽぽ。
「この世界の片隅に」咲いているたんぽぽのお話だから。

でもすずさんは江波にいる頃は着物に描かれてる花が象徴として描かれている。あの花の名前は知らんけど。哲も黒葉の中にあの花を入れてるし、すずさんと周作の出会った山のシーンでもそうだった。
江波にいる頃のすずさんは咲いている花の様な存在ってことなんだろう。どこから飛んできたたんぽぽでは無いと。

嫁いだ日の夜に天井を右手の指で絵を描くようになぞるシーン。
哲の代わりに海を描くシーンで去っていく哲が絵のような描写で表される。これはすずさんはぼーとしていて言葉では世界と繋がれないが絵で繋がっているという事を表している。彼女は呉を世界として認識し繋がろうとしている描写だと思う。

すずさんがお里帰りして家族との夕食シーン。
ここで家族全員がすずさんのお兄さんから手紙の返事がない事を深刻には捉えていない。これは戦争というリアルな世界とそれを感じていない現実感の無い家族との対比。人間てのはそんなもの。戦争も地震も津波も原発も目の前に来なければ深刻な目の前の世界のリアルとして感じていられない。

すずさんがたんぽぽの綿毛を飛ばして、たんぽぽの花を周作が摘むのを制止するシーン。
これは気持ちの中で呉に根を張って生きていかなければという、自分へのメッセージ。
しかし決意というにはまだ弱い。そのニュアンスも表現されてて凄いっちゅうことなんだ。

義姉の径子の境遇を知って海の舟を描きに行くシーン。
ここではすずさんは径子の境遇を知ることで、今自分のいる世界の事が少し解り、自分とその世界が少しずつ繋がっていっているのを表している。

お兄さんのお骨をもって帰ってきたシーン。
ここで周りの歩行者がみなお骨に向かってお辞儀をしている。
これを直前の哲の「わしを英霊のように思わんといてくれ」というシーンの直後に持ってくるんだからすげえよね。哲がそう願っていても彼やお兄さんの知っているリアルな世界がすずさんの日常に姿を見せたということ。
それでもまだ現実感の無さがすずさんのお母さんの態度から見てとれる。

その直後の周作と喧嘩しながら帰るシーン。
ここで周作はすずさんが怒った顔を見せないから、まだこっちの世界に来てはいないという気持ちの怒りを表す。道を間違えていると言う周作に怒った口調で「わかっちょりましゅ」と広島弁かと思われる言葉で返すすずさん。これはすずさんの感情の全てはまだ呉には来ていない事を表現していると思う。これに関しては広島弁や呉弁に詳しくないので、臆測の度合いが大きい。

畑で初めて空襲にあうシーン。
ここは屈指の名シーンだと思う。
山から表れる戦闘機を絵で表現することで、すずさんの日常に否応なくリアルな世界が介入してきた事を表している。更にフレームの外から筆が現れ絵の具での表現がある。軍事的に何て言うのかは知らないが(カラーのついた煙は現実にあの色らしい)煙玉をそれで表現しているのが彼女の視線、目線というのを強調している。
そして「今、ここに絵の具があれば。ってうちは何を考えてしもうとるんじゃ」という台詞。これは絵の具で描く事でこの嘘のような現実の世界と繋がれるのに、という表現だと思う。だからまだ嘘の世界という認識で留まるが故に彼女は立ち尽くす。これは絵で表現したことのある哲に対しては自分の内面を素早く現すことの出来る事と裏表だ。すずさんは絵に描いた世界とは繋がっていられるというシーンは終始出てくる。

晴美が死んだ後のシーンでリンさんの「そうそう居場所はねぇなりゃせんのよ」という台詞と、すずさんの家が無事でよかったというシーンの「嘘だ」という一連の台詞。
これはすずさんの広島への気持ちが明確に残っているという結構重いシーン。

焼夷弾が家に落ちてくるシーン。
ここは原作より相当素晴らしいシーン。
焼夷弾が落ちてもすずさんはしばらく微動だにしない。これはこのまま燃えてしまったら居場所が無くなって広島に帰られると逡巡するシーン。直前の「家が無くなって、どうどうと出ていけたんだろうか?」という台詞と繋がっている。

「 よかった、よかった、よかった」のシーン。
右手の記憶をリフレインしていき、下手な絵で書きなぐった様な表現に変わる。もう右手の無い彼女はこの世界(呉)とは繋がれないという表現。

その直後の妹のすみちゃんが恋ばなを始めるシーン。
ここは今だ戦時下というリアルな世界を感じられないすみちゃんと呉の対比。

そして言葉もなく警報を繰り返す日々で何も出来ずに居場所を失うすずさん。

そしてサギを広島に逃がそうとするシーン。
ここも名シーン。
これは故郷の象徴であるサギに対して広島に帰れと追い立てることが、自分自身が帰るべきだと自分自身に言い聞かせていることに繋がっていると表現している。更にここでは原作未読では解らないが遊郭の友達に貰った口紅が空襲で壊れる。これは呉での日常が壊れる様を表している。

広島から飛ばされてきた障子に広島の想い出が描かれるシーン。
実際には障子紙は全て破れてしまっている。とってもとっても悲しいシーン。描いた想い出はもう永遠に想い出の中にしか無くなってしまった。

米軍の紙のシーンで呉で戦う決意をした直後に敗戦の詔を聞くシーン。
ここの台詞に関しては主義思想の議論が起こりにくいようにできる限りの配慮はされてると思う。太極旗も原作の暴力による支配から、外からの資源の享受への気付きという表現に変わっている。
そして嗚咽する横で暴力の象徴の焼夷弾?の破片と、その横で咲きかける花。これもその後の展開の足掛かりとなっている。

銀シャリのシーン。
ここで右手がそっとすずさんの頭を撫でる。これは右手との別れ、即ち広島との別れと思いとの別れを意味していると思う。右手が現れる直前に晴美ちゃんが絵を描いていた事を思い出す。これは想い出の箱として心でそれを描く事で、右手無しでも世界と繋がっていける様になったことを表してる。

そして電球の明かりがポツポツ付くシーンは。復興と再生は小市民から始まるというシーン。

農家?で食料と衣類を交換するシーン。
ここでかつてのすずさんを象徴していた花柄の嫁入り着物を手放している。これは正にかつての自分との別れを意味している。

刈谷さんの語るシーン。
刈谷さんは結構重要で。彼女の身にも大きな不幸は降りかかっていて、すずさんだけでは無いという描写をいれることで、描かれる世界が容赦の無い世界(キャラクター毎に幸不幸の忖度などしない)だということを表している。これがリアルさをます大きな要因だと思う。

哲のシーン。
「哲さん、あんたの笑顔の端にウサギのはねる海が、サギの渡る空がうつっとった」、「晴美さんはよう笑うてじゃし、晴美さんのことは笑うて思い出したげよう思います」、「この先ずっと、うちは笑顔のいれもんなんです」
これは生きていればその人に記憶も想い出も残り続けるということ。すずさんは生きて死んだ人を思い出してあげる役割を受け入れる事で、世界と繋がっていく術を手にいれたということ。

エンディングのリンさんのシーン。
無い右手で描いているというのは右手が無くても思い出してあげられるという表現。そして最後にすずさんが消えるのは彼女が生きている人だからかな。
最後に出てくる右手は手を振っている。これは右手とのさようならの挨拶。

また気がつけば追加していこう。