慌てて湿布薬を張ってしのぐ事が出来たけど
翌朝は体に力の入り過ぎた反動か、倦怠感でなかなか起き上がる事が出来なかった。
単に「季節の変わり目」だからの括りでは、もう心がしのげなくなってきている。
何より厄介なのが🐶君も仕事が後1ヶ月は忙しく、帰ってくるのが遅いため私のフォローにも限界がある。(彼の心苦しさはよくよく伝わる。)
それでも彼なりに精一杯してくれるのだけれども。
日中の食事や入浴とかになると、もうどうしたものかなってなっている。
幸い空腹になりすぎる事は避けられているけど、極端に減った食事量で身体が弱って行くのは止められない。
顎の関節も痛むので、リンゴがかじれないし、胃が受け付けなくなってきている。
でも痛み止め(2種)胃薬・安定剤、睡眠導入剤を飲むためには何かしら胃に入れなくちゃと思ってパンをかじって胃の粘膜を守るためホットミルクを飲んだりする。
そしてベッドの上で1日の大半をすごす。
幸いNetflixがあるから映画やドラマを見ていられるんだけど、身体が痛くて同じ姿勢で見続けていられない。
最終的には携帯の重さで肩関節がやられて、吐き気がしてしまう。
新しい痛み止めを検討しようか本気で考えているけど、それにはステロイドの服用が条件だったりと越えられない壁がある。
つくづくこの週は「生」に対してかんがえさせられる。
久しぶりに体中の痛みで、今もまた起きてしまって。恐らく風邪からくる寒気も影響してる★
ちょうどこの絵を描いた時もそんな時だったなぁ。
人間何かに追い込まれてる時に作るものは、後々の自分にも沢山のことを語りかけてくれる。
私はいつもそんな気がする。
改めてこの頃「生」に対して敏感になる。
朝起き上がる事・食事をする事・誰かと語り合う事…そういった何気ない事がポロポロ指先から溢れて行く度に、私はやっぱりまた「生」に敏感になる。
人間はなんて儚いものを、さも当たり前に、時には我が物顔で行う生き物だろうと。
神様からその行動1つ1つに「良し」というサインがなければそれは必ず機能しない。
私は最期の時にこの掌に何を握りしめているんだろう。
恐らく極々僅かな、それでいて私の人生を物語る何かなのかもしれない。
父親が最期の時病院に持っていったのは、メガネだけだった。
本人も「あぁこれだけしかないのか…」と呟いていたけど。
今もし可能なら私の残りの時間を切り売り出来て必要に人に分け与えたいって本気で思う。
「生」がある限り続く戦いに疲れ切ってしまっているるのかもしれないけど。
何か私なりに役に立つ事をして残せれば私の存在意義がそこで生まれる。
そんな気持ちにもう1ヶ月ほど向き合っている気がする。
覚悟して「東京」という場所に嫁いできた訳だけれど、想像以上の過酷さを目の当たりにすると、いとも簡単に人間の心は折れてしまう。
明日もできる事なら静かに、痛みが少しでも穏やかに迎えたい。
そして、同じような状態・それ以上の友人の事を思わずにはいられない。