こんにちは。

北海道 砂川市 若石リフレクソロジー&スクール むすびて 吉野祥子です。

 

今回は今ここにたどり着いた私の経緯を自分でもおさらいしたくマイストーリーとしてたどってみたいと思います。人生50年近くいろんな事やってきたので長い文章になりますが、お付き合いください。

 

私は栗山町の唯専寺というお寺に生まれました。父は当時副住職、その他ボーイスカウト活動、保護司、茶道や剣道の講師をしていました。更にグルメでしたし趣味が沢山ある人でした。母も茶道とお琴を教えていました。私の上に一つ姉がいて、もう一人私と双子の妹がいます。

 

 

家がお寺だったので、小さいころは誰かが亡くなると、夜中でも、お正月でも、枕経に行かなければいけない、それ以外でもいろんな人がやって来て話をしていったり、お葬式になれば知らない人が出入りして、何か落ち着かない環境にいました。

 

 

父も母も忙しく、家にいないことも多くて祖母にかわいがってもらいましたが、祖母と母の関係があまり良くなかったので、どちらにも甘えられない子供でした。

 

 

姉と妹とはよく遊びましたし、隣が公園だったので良く外でも遊びましたが、家で姉妹で買い物ごっこをしたり、紙で着せ替え人形を作り、洋服をデザインして紙にかいて人形に着せて遊ぶのが好きな子どもでした。

 

 

いつも人の出入りが激しい中ざわざわした気持ちで成長して、祖母と母の関係が良くなく、そんな日常から抜け出したいのか、母の気持ちはいつも外に向いていて、母が出かけると帰ってこないのでは、と不安に思う日々でした。

 

 

本当は母に認められたかったのだと思いますか、だれでもいいから認められたいと思う気持ちが大きいくせに、引っ込み思案で目立ちたくないという矛盾した気持ちを持っていました。

 

 

そんな家庭環境だったので、中学校時代は早く大人になって家を出ていくことが私の夢でした。

自分に自信がなく、言いたいことも言えない自分が大嫌いで・・・ でも私はこんなんじゃないとどこかで思っていつか殻を抜け出すんだと思っていました。

 

 

現在もあまり中学校の頃は記憶がありません。

 

 

高校は姉が跡継ぎのため札幌の私立高校に進学したので私も家を出るため同じ高校に行きたかったのですが、私は無理と言われ地元の高校に進学。

 

 

「高校に入ったら自分変わるんだ」と自分に言い聞かせていましたが、同級生はほとんどが中学校からの同じメンバー、変わるきっかけをみつけられずにいました。新しい友達も出来ましたが、ドラマの話しについていけず、表面では話に加わっていますが、心の中では退屈に思っていました。

 

 

そんな毎日だったので大事な青春時代の色はくらーい青のイメージで、なんとか毎日やり過ごしている感じでした。同じ高校に進学した妹とは趣味も違っていたし、ずっと比べられることが多かったのであまり話はしませんでしたし、友達も別々でした。

 

 

やっと妹といろんな話をするようになったのは高校3年生の後半から。少し大人に近づいて心も落ち着いてきたからでしょうか。

 

 

そんな中で私の唯一の好きな事は映画を見る事。

 

 

土曜日は母が札幌の高校に茶道を教えに行っていたので、時間が合えば車に乗せてもらって毎週のように札幌に行き映画を見ていました。月に一度くらいのペースで日曜日は一人でバスに乗って札幌に行き映画館のはしご。

 

 

当時は2本立ての映画も多かったので、1日で4本見る事もありました。

 

 

思えばアルバイトもほとんどせず、おこずかいをもらっていなかったので行く時は母にお金をもらっていたのですが、よく許してくれたし、そんなお金どこにあったんだろう?と思います。今考えればありがたいです。

 

 

私の愛読雑誌は映画雑誌の「スクリーン」と「ロードショー」それを読みながら、面白そうな映画をチェック。

 

 

見ていた映画はほとんど洋画。いろんなジャンルの映画を見た。ハリウッドの明快なストーリーや、深い意味も分からず見ていた大人感たっぷりのヨーロッパ映画。今だから見たいな~と思うのもありますね~。

 

 

そんな映画の世界に憧れていた私は横浜の「横浜放送映画専門学院」(のちに「日本映画大学」)に進学。映画監督の今村昌平が校長という事で講師も癖のある人がたくさんいました。

 

 

同窓生も個性がある人も多く、学校はやっと自分と話が合う人に出会えて楽しい場でした。ここで出会った友達は今も大切な友達です。

 

 

田舎で育ったので、毎日が新鮮でした。最初に住んでいたのは横浜の日吉という所の学校の寮に住んでいました。

 

 

憧れの一人暮らしという感じではありませんでしたが、毎晩、友達といろんな話をして楽しかった~。自宅から通っている友達に車で迎えに来てもらって、夜中に抜けだしてドライブしたり、映画もよく見に行っていましたね~。初めて芝居も見に行ったし。ディスコ(懐かしい~今は死語ですよね。)にもよく行っていたし、毎日楽しくて、人生を楽しんでいましたね~。高校までの退屈な毎日から一転してやっと青春時代を過ごせた気がします。

 

 

仕送りは寮費や学費くらいで生活費は自分で稼ぐためアルバイトもたくさんしました。お寿司屋さん、お蕎麦屋さん、イタリアンレストラン、フグ料理屋さん、ホテルの結婚式場の照明係などなど。

 

 

1年後には寮を出て1人暮らし。小田急線の多摩川を近くの登戸という所に引っ越しました。

 

 

映画もたくさん見ました。このころの私の愛読書は「ぴあ」。毎週買って都内、都下の映画館情報をチェックして、最新作、旧作の面白そうな映画を見ていました。

 

 

そんな映画漬けの学生時代でしたが、就職先は小さな会社でワーナーやUIP,松竹富士など洋画の映画予告を作る広告代理店に就職しました。

 

 

今は分かりませんが、当時はこの業界は最低賃金、オーバーワークは当たり前。労働基準法に抵触しない職種らしいです。

 

 

一応9:00~の仕事ですが、終わる時間は全く解りませんでした。終電に間に合わないこともざらでタクシーで帰って来ることも多く、当時風呂無しのアパートに住んでいたので銭湯の空いてる時間には間に合わず、コインシャワーに通っていました。

 

 

当時はとにかく映画が売れない時代で、同じ映画を何週間も上映はしていなかったので次から次と新しい作品の予告作りの依頼がやって来て、とにかく毎週締め切りに追われる毎日でした。

 

 

でも映画会社の最初の試写会に呼ばれ、一番最初に映画を見れるのは嬉しかったです。

 

「007シリーズ」「プラトーン」「レインマン」「アメージングストーリー」当時人気だったマイケル・J・フォックス(バックトゥザフューチャーの主役)作品などなど数えきれないくらいの作品公開に向けて携わってきました。当時は大きな作品は必ず「特報」「予告編」「TVスポット」「ラジオスポット」までありましたので、公開まで長い月日を1作品に費やしました。

 

 

一番つらかったのは映画のフィルムを持って帰ることでした。当時はまだフィルムの時代。ワーナーブラザーズ、UIP、などの配給会社はたいてい銀座にありましたので、おしゃれな銀座で、いけてない格好の私が重たいフィルム(直径50cm幅4cmくらいのフィルム缶を6巻)を持って帰るのは恥ずかしかったですね。そんな乙女心を抱えながらも寝不足の顔をして外回りの仕事をしていました。

 

 

そこでは他の職業とは違ういろんな経験をしました。最初の私の仕事は本当にアシスタント。小間使いです。ディレクターから指示されたシーンの抜きだし作業、編集、スタジオでの音入れ作業の準備、配給会社や現像所へのお届けものをしたりなどなど、この仕事では先をよんで、ディレクター、スタッフがどうやったら仕事をやりやすいかを考えて仕事をすることを学びました。

 

 

その後、音の編集、ネガ編集などさせてもらう事がになりとてもやりがいもあったし、自分が携わった映画の予告編やTVスポットが流れるのを見ると嬉しかったですが、常に締め切りに追われ、他の作品も同時進行しているので、平日は心が休まる日がなかったです。とにかく電車で帰れる日があると今日は早く帰れた~と感じるくらい忙しい時もありました。

 

 

そんな仕事だったのでストレスは半端なく、外に出ると電車待ちの間にm&mのピーナツ入りのとかスニッカーズなど噛みごたえのあるチョコレート菓子を齧ってストレス発散していました(笑)

 

 

そんなことしていたので便秘がひどく、休みの土曜日の朝出るといった状態。1週間でないのは当たり前になっていました。

 

 

そのうち生理がこなくなって病院で診察してもらうと、不規則な生活とストレスが原因と言われ、さらに子宮が小さくなっていると言われました。

 

 

漢方薬を処方され、しばらく飲んでいましたが、こんな生活していたら将来子ども産めなくなってしまうと思ったのと、やはり精神的にも忙しすぎてつらかったので仕事をやめることを決断しました。仕事自体は映画に携われて面白くて好きだったのですが、2年でその事務所を退職。

 

 

その後、派遣会社に登録。日本テレコム(今のAU)に派遣され、電話応対のオペレーターの仕事につきました。当時はバブルの頃で自給が1300円くらいで残業代も出て有給もあり、数カ月に一度、派遣会社持ちでディズニーランドとホテルでのディナーの招待など、今では信じられないくらいの待遇の良さ。

 

 

初めてお金に余裕のある生活ができたので、買い物三昧をしていたこのころ。それはそれで楽しい毎日でした。

 

 

その職場で知り合ったWさん。たまにかかってくる外国のお客様からの電話に英語で対応されている姿がかっこよかった!彼女からここに来る前はワーキングホリデービザでオーストラリアに住んでいたという話を聞いたのでした。

 

 

映画が好きで、洋画ばかり見ていたので、字幕なしで映画が見れたらいいな~とずっと思っていましたが、その時まで、ただの「いいな~」で現実に考えたことはありませんでした。

 

 

ワーキングホリデービザは1年間、オーストラリアで仕事してもいいし、勉強してもいいし、旅行してもいいというビザでした。生理は来ないし、ちょうど好きな仕事もやめこれからどうしよう、と宙ぶらりんの状態だったので「これだ!」って閃いた感じで、直ぐにオーストラリアに行く事に決めました。

 

 

それからは平日は日本テレコムのオペレーター、残業も毎日して土日は秋葉原の電気街でコンパニオン、途中あったゴールデンウィーク中はデパートの衣料品店の販売員と4カ月くらい全く休みなしで働き続け100万円貯めました。一人暮らしで短期間でお金を貯めるのは大変でしたが自分の夢に向かって頑張りました。