あれから5年が経った | 菅野さち子 オフィシャルブログ「ふるさとを忘れず、ふるさとに寄り添い、ふるさとのために生きる」Powered by Ameba

あれから5年が経った

先の衆議院解散から3年、あっというまに過ぎた。
間もなく新しい年を迎える前に、私はこれまでのことを思い出して、正直に自分に向き合おうと決意した。

何も伝えなければ、それは無いもの同じ、誤解されて過ぎていくのはたまらない。

事実は事実として、私の人生の記録として残しておこうと思った。

衆議院の解散からはやも3年が過ぎてしまった。

私が選挙に出ようとしたのは、五年前のこと、民主党政権下での東日本大震災の発生。

その後の東京電力福島第一原発事故、
あのままでは、福島が、日本がダメになってしまう。

経済も防衛も事故後の復興もあの政権下でどうなってしまうのか!

原発が赤々と燃えていたあの原子炉のテレビでの映像、命の危険を人生で初めて感じたあの恐怖、

日本沈没を想像してします、不安と恐怖の毎日、

自民党でなければ、この国は崩れてしまう!

私の心のそこから、それはマグマのように熱く強い思いが湧いてきた。

当時
福島第3区に自民党の候補者が無い、
それであるなら、1%の可能性があるなら、私が出ようと手を挙げた。
いま考えるとなぜあそこまでの決意と勇気が湧いてでたのか?不思議である。

明確な理由は、自分のことより、福島の未来が全く見えてこなかったからー

それが私の出馬しようとした大きな理由であった。

しかし、あの解散劇の際に、3区の支部長を新党改革の荒井先生の元秘書で、議員時代私の事務所に足繁く通い、先生の事務所に出入りしていた上杉氏が支部長になり、自民党の候補者として戦うことになった。

いま考えると、当時、私の事務所によく足を運んでいたのは、なんらかの情報を得るためでもあったのかな?と疑ってしまう

わずかの差で比例区復活できなかった
上杉氏が3区の支部長になった。

その背景には様々な政治の裏の動きがあったと後で聞いた。

あのドタバタ劇の始まりは、
県連会長の岩城先生から呼び出しであつた。

支部長の座を捨て比例区に回ることになると説明を受けた。
先生の事務所の外にはすでにマスコミが待っていた。
逃げることができない。
最初の時と同じだ。

私の感情や事情なんてまるで無視された。

5年前、私が全てを捨てて、立候補したときに、支部長として2回立候補を認めるという約束があったが、それも反故にされた。

支部長外しに対し、県連会長から
ちゃんとした説明ももらえなかった。

ただ長く戦える若い人を起用するとの事、
あまりにも馬鹿にしていないだろうか?

考えてみると、闇の中で少しずつ、支部長外しの網が張り巡らされていたように思う。

当時、衆議院の
解散があると噂になったときには、地元支援者が3区の自民党員の確保に頑張ってくれようとしていた。

それを阻止したのは最後まで勤めたM秘書である。解散はないのでその必要は無くなったと地元に報告して、党員の獲得をやめることを伝えていた。なぜ?

その後この秘書はとんでもないことをして、私を苦しめ続けた。

また、当時事務所にいた東京生まれの女性秘書には、もし党に逆らうようであれば、自民党の他の議員のように、他地区に回されてしまうかもしれない、このまま素直に党の意向に沿うのがベストだと強く諭された。

私は政治家としての立ち回り方を知らなすぎた。
どうにかして議席を守り、次の選挙を戦って、3区の自民党員の結束を強固にしたい。
2回目を戦って終われば次の人にバトンタッチすれば良いだろうと甘いことを考えていたから、こんなことになってしまったのだ、

政治の世界が半端じゃなく、魑魅魍魎の徘徊する世界であることも知らなすぎた。

余りにも自分の無知を恥じた。

東京においては、
右を見ても左を見ても周りで私を守ろうとする者が見当たらない。

周り敵だらけの状態になり、最終的に、私は自分が自ら認め立候補を辞退することを余儀なくされた。

本当に悔しく、また応援してくださった地元の方々には申し訳なく、地元支持者のことを考えると何と説明して良いのか、夜も眠れず苦しい毎日を過ごしていた。

全くもって誰を信じて良いのか、何を信じて良いのか分からなくなっていた。
あまりのことに、現実を受け止められなかった。

当時マスコミを通じて、私が自ら辞退したと地元には伝わり、地元支持者に言葉がなかった。

申し訳なさと口惜しさと、現実とは思えない現実を受け入れることが出来なかった。

ありえない世界に自分が流され、魂だけがふらふらとあの暗闇の空間を漂っていた。

自民党の地元の一長老から、政治の世界はヤクザよりも酷いと聞かされた。

それはなぜかと聞くと、ヤクザには仁義というものがあるが、政治にはそれさえも無い、
だからだというのである。

政治の世界がそういうものなのを、私はその時初めて知った。