久しぶりにこの話題かな。
摂食障害、ここのところある人物により、メディアも注目しているようですね。
確かに彼女はほんの数か月で劇的にお痩せになられたのが、映像からもわかります。
ってことは、実際お会いしたなら、かなりかと思われ…。
みなさんがメディアの映像や言葉でどのくらい感じているのかわからないので、あくまでも私個人の意見をここで書こうと思います。
彼女(あえてこう書かせていただきます)は、生まれたときからすでに一般家庭と言われる存在でない生活を余儀なくされているのです。
人知れぬご苦労は当然あります。
しかし、ほかのご親族はどうだったかというと、そのような方はこの方のお母さま以外は一般的にはお見えになかったのです。
なぜ彼女だけがこのようになったのか?
そりゃ原因なんていくらでもありますよ。
でも、そんな原因を探しても仕方ないと思うのです。
もちろん、原因が明らかな方が治療はすすみます。
しかし、彼女に寄り添い、彼女の気持ちを汲むことの方が重要じゃないのかなと思ったのです。
そして、過去も大切ですが、今、そしてこれから彼女がどうして生きていきたいのか、生きていこうとしているのか、今この瞬間に何を感じたのか、どんな人たちとともに歩みたいのか。
それらをきちんとくみ取れる人がどれだけ周りにいるかだと思うのです。
また、彼女をきちんとわかろうとしなくても、彼女を否定も肯定もなく「人」としてきちんと接してくれる人がどれだけいるかに焦点を置く方がいいのではと思います。
つい先日、親子で卒業式に参加された彼女。
少し顔色もよくなり、状態がいいかなと思われるお写真が掲載されましたね。
何かしらの対応を水面下でされたのだと思われます。
世間でワーワー言って、彼女やその家族方にとってはいい迷惑だったと思います。
というか、今回のお写真ももちろんコメントには「ふっくらされて」という表現をされていますが、この「ふっくら」という表現を使ったのはメディアの気遣いを感じさせます。
だが、当のご本人はどうご覧になられたでしょうか…。
私はこの「ふっくら」も許せない時期がありました。
もちろん相手が言葉を選んでくれた発言というのはわかっているのです。
「太ったね」とか「ぽっちゃりしたね」とかよりはましな表現です(これはあくまでも私の主観)。
だけど、私自身は治りかけている時期にそういった体型などの話をされるとどうしていいのかわからなくなっていました。
今でこそ「太ったね」もなんでも素直に「そうなのよねぇ」なんて答えられますけどね。
そこじゃなく、私という一人のパーソナルを受け取ってくれる人が一人でも多くほしかったのだと、今になって私は気づきました。
表面的なことや、なんとなく同情する、そういったのって結局自分自身苦しくなっていくんですよね、時間が経っていくほどに。
それから、「心配している」っていうのも、結局相手がその「心配」だからとその人が本当にしてほしいことややってほしいこと話をしてほしいことの意図を汲まずに、その人の単なる親切心で言動されるのもつらいです。
「私はそれを望んでいない」、そう言いたいのですが、相手の親切心が分かるがゆえに何も言えないのです。
結局その勝手な親切心を受け取り、さらに自分が苦しくなっていく。
また、ひどいと相手が良かれと思ってやった勝手なる親切心に、私からの何かしらの見返り(つまり症状がよくなるなど)がないと、怒り出したり落胆したりする始末。
これじゃ、当事者としてはもう八方ふさがりでしかないのですよね。
もう一つは、放棄。
見守るってことができないので、もうあきらめという言葉で表現されますが、簡単にいうと放棄するということ。
もう何でも好きにすれば?みたいな。
それはそれでありがたい面もありますが、本当に助けてほしいというサインを出しているときにまで放棄されちゃうともうどうにもなりません。
これらすべて私が体験してきたことです。
だからかなり私の主観なことだと思います。
けど、摂食障害って言葉やコミュニケーションでどうにもならないから、自分を痛めつけ身体で表現するしかないものなのじゃないかと、最近思うようになったのです。
頑張っている私も、ダメな私も、甘えたり暴言を吐いたり、いろんな意味でいったん受け止める力を持つ人に、一人でも出会えたのなら、おそらく摂食障害が完治とまでいかなくても何かしらの回復が見込めるのじゃないかと思います。
もちろん、当事者も頑張らねばならないときはあります。
自分と向き合う作業。
本当につらいですよ、これって。
大好きなところなんてない自分も、本当は否定したくない自分の性格も、すべてをいったん「自分とは」というものと向き合って、そこからリ・スタートするくらいの気持ちが必要だと思うのです。
もう一つは「割り切る力」を作ることだと思います。
あえて「作る」と表現した理由。
それは、これも私の主観になりますが、「割り切る」が私は下手でした。
だから、「割り切る力」を自分で開拓して「作る」作業をすることで、それが知らないうちに自然とできるようになるように感じています。
だから、まずは「作る」ところが必要かなと思い、この表現をしました。
摂食障害で苦しんでいる人たちすべてがこれに当てはめればよくなるっていうものでもないし、冒頭で出した「彼女」も、こういうことをやっていたのかどうかはわかりません。
けど、今の私に摂食障害で苦しんでいる人の名から少しでもそこから抜け出そうと思っている人がいるのなら、「こういうこともあるんだよ」程度に読んでいただければ嬉しく思います。