今日のメルマガにて配信させて頂いた内容です。

実は、今回のチャリティー企画では、カンボジアに小学校を建設したいと考えています。

その理由(私の葛藤)についてまとめてみました。

かなり長文になってしまいましたが、宜しければご一読ください…。


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何故この時期にカンボジアへ小学校を建設する必然があるのか?

と感じる方も多いと思います。

ちなみに、カンボジアへ小学校を寄贈する場合の費用ですが、

約320~400万円必要です。(現地法人KHJ Constuructionに依頼する予定です)

約600人以上の子供達が勉強することが出来ます。


なぜ小学校建設なのか?

それは、「経済的に貧しい国への子供の教育に関する支援」は、

子供達の将来や未来への可能性を考えた時に、

非常に有益で大切な支援だと思うからです。


まだまだ短い期間ではありますが、これまでバラコミでは主に、

「井戸建設」への支援活動を行ってきました。

何故なら、生活基盤を安定させるために、

「安全な水の確保は最優先である」と感じたからです。


生きていく為に水は必要不可欠なものです。

カンボジアでは清潔な水が飲めない為に病気になってしまう子供達が沢山います。

また水汲み作業の為に学校に通いたくても通えない子供達が沢山いるのです。


とはいえ、実際に関わってみると、井戸が必要な地域は果てしなく続き、

やればやるほど自分の無力さも感じています。

ですが、実際に井戸を建設した村を訪れて話を聞いた時、

井戸は間違いなく村の人達の役に立ち、生活にうるおいが

出来ていることも肌で感じることができました。


今後も井戸支援は継続していくつもりです。

しかし次に必要な支援として、これからの子供達の将来を考えた時に、

「学校建設」に取り組んでみたいと思ったのです。

そして今回の東日本の震災が、私のカンボジアへの学校建設に対する想いを強くしました。


私の勝手な思いこみかも知れませんが、震災のあと、学校が再開し、

子供達は授業を受けたり、友達と遊んだりすることで、

少しは元気を取り戻すことが出来たのではないかと思うのです。

また、「学ぶ」ということは生きる糧にもなるはずです。

やがてそれは血となり肉となって、自分の未来を切り開いてゆく力になると思うのです。


もちろんこのような経験は、決して望んでいたことではないはずです。

大切な家族や友達、家をなくし、今なお多くの子供達が心の傷を負っていると思います。

しかし今回の経験によって改めて学校の楽しさや

学ぶことの大切さも感じているのではないか?とも思うのです。


震災のあと、私自身「もし自分が明日死ぬとしたら…」

ということも真剣に考えました。

そして「死ぬまでにやっておきたいこと」についても考えました。


限られた人生だからこそ、自分自身が価値のあると感じることに

チャレンジしたいと思いました。さらにそれが多くの人の役に立てるならば、

本当に幸せだと思います。そう感じる事の一つが、

私にとって、「カンボジアへの学校建設」だったのです。


正直なところ、現在の被災地の状況を考えると、

わざわざ今この時期に、カンボジアに小学校を建設する必然はないとも思います。


カンボジアに小学校を建てることより、猛暑の中、

未だ避難所生活を余儀なくされている方の為にも、

早急に仮設住宅を建設したり、住居を確保するべきであるとも思います。


しかし調べてみると、仮設住宅を一戸建設する費用(約240~500万)は、

カンボジアの小学校を一校舎建設する費用(約320~400万)と同じ位必要なのです。


つまり現実的な支援を考えた時に、あまりにも莫大な費用がかかります。

当然支援というのは、お金だけではありませんし、

それぞれが自分のできる支援を行うことが大切なのだと思います。

ただどうしても、私が個人的なチャリティー活動として、

自分の思う支援を行うことへの難しさも感じています。


また日本の公的機関を通じて寄付をした場合、そのお金がいつどのように

使われるのか明確ではありません。そして寄付金が100%現地へ

届けられるのも難しいと思います。(これは組織が大きくなれば当然のことでもあり、

現実的に運営していく上で仕方のないことだと思います…)


つまり、これまでバラコミの支援活動の中で目指してきた、

「目に見える支援」

「集まった寄付金を1円も無駄にせず確実に現地へ届ける」

「集まった寄付金は出来るだけ早く形にして支援者の方へ報告をする」



これらの事を、実現するのが非常に難しいと感じています。


このようなことも考えた結果、バラコミのチャリティーとしては、

カンボジアへの小学校建設を目指すことに思い至りました。


私の思う、カンボジアに小学校を寄贈する意義ですが、


・子供達が快適に勉強する環境が提供できる。

・勉強することで、識字率が上がる。

・識字率が上がることで、勉強への興味が上がる。

・勉強や仕事への可能性が広がり、お金を稼ぐチャンスが増える。

・子供達が将来都会に出て仕事をするチャンスが増える。

 (田舎ではなかなか仕事がありませんし、字が読めない為に

  仕事に就けない人達が現在も沢山います)

・お金を稼ぐチャンスが増えることで、子供達が自分の未来に夢を持つことが出来る。

・就業率が上がることは、カンボジアの経済の発展につながる。



他にもあると思いますが、これらの可能性を考えると、

学校建設はカンボジアの子供達の未来に向けて

とても価値のある支援ではないかと思っています。


しかし、良かれと思って行った支援により、新たな問題が発生する可能性もあります。


例えば、井戸支援においては、過去にカンボジアに支援した団体が、

十分な水質検査をせずに井戸を建設した為に、井戸水から砒素が検出され、

その村の人が病気になったという事故もあるそうです。

(バラコミの支援では、この事態を避ける為に、定期的に水質検査を行うように依頼しています)


また、村のどの場所に井戸を建設するかで、村の人達がもめたり、

トラブルが起こることもあるはずです。(そうならない為に、

村長さんなど責任のある方が中心となって決定して頂くようにはしています)


また、以前あるTV番組のチャリティー企画でカンボジアに建設された小学校が、

現在廃校寸前になっているというような記事がネットに出ています。

(これは、事前に十分な調査なく学校を建設した場合、そのような事態がおこるようです。

バラコミの支援では、現地建設会社のKHJさんを通じて十分な調査を行い、

校舎を建設する前に郡長さん、村長さんなどと約束を交わし、教育局などにも申請し、

関わる全ての人達の協力を得て建設を開始します)


これらはほんの一例ですが、支援をすればするほど、関われば関わるほど、

様々な問題に直面します。そして一体どこまで関わるべきなのだろうか?

という葛藤もあります。


さらに、支援する側とされる側には、必ず温度差あると思います。


支援する私達がどのような思いであったとしても、カンボジアの貧しい村の人々にとって

支援を受けることはごく当たり前のことではないかと思うのです。

自分達は貧しいのだから支援を受けることも当然だと感じていると思うのです。

(阪神大震災で、私自身が被災者の立場を経験した時の気持ちを思い出すと、

少し理解できるように思います…)


また寄付をした方が、もしも未来的に窮地に陥ったとしても、

現地の人達から同じだけの支援を受けることは難しいとも思います。


「それでも何故、私はカンボジアの支援をしたいのか?」

その理由についてこのあとのメールに詳しく書いてゆきたいと思います。


(続く)