大阪&京都ツアー その2「大阪&京都ツアー」前日から目をつけていた 十三駅前 喜八洲総本舗のみたらし団子画像の上をクリックすると 写真が大きくなります柔らかくて もちもちしていて 美味しかったです大阪を後にして お次は京都鹿苑寺(金閣寺)室町幕府3代将軍足利義満により南北朝の合一にも成功し 世の中がひとときの平和を取り戻した そんな時代。 応永元(1394)年 一応の達成感を得た義満は37歳にして将軍職を譲り 翌年出家。 応永4(1397)年には 衰微した貴族 西園寺家の別荘である北山第を譲り受け 新たに「北山殿」という山荘を造営した。 黄金浄土世界の再現を望み 特に舎利殿は金箔をもって建物を覆った。 これが金閣の始まりである。 壮大な御殿を造った義満は 対明貿易の勅使を北山殿で迎えることなどを行ったため 中国のさまざまな文化が北山に集まった。 さらに後小松天皇を招き盛大な宴を開くなど 伝統的公家文化と新しい武家文化が融合して ここに北山文化が花開くことになるのである。 義満は応永15(1408)年に51歳でこの世を去るまで北山殿に住まわった。 義満の死後 4代将軍義持は遺言に従って 開祖に夢窓国師を勧請して禅寺とし 義満の法名(鹿苑院天山道義)より鹿苑寺と名づけられた。 応仁の乱では金閣など少数の建物を残して焼失してしまうが 桃山時代に相国寺の西笑承兌が復興に努めて ほぼ現在の姿になったという。 太平洋戦争などもくぐりぬけ 戦後まで往時の姿をとどめていた金閣であるが 昭和25(1950)年に学僧による放火で全焼 残念ながら現在の金閣は昭和30(1955)年に再建されたものである。 金箔の剥落が目立ったため1987年には5倍の厚さの金箔に貼り替えられ最近では平成15(2003)年3月まで屋根の修復工事を行った。 鹿苑寺内の建物にはひとつも国宝や国重文に指定された建築はないが 華やかな北山文化を想わせる金閣には多くの観光客が訪れ 平成6(1994)年に世界文化遺産に登録されている。 風情のある入場券 鐘楼 陸舟の松 庭園・鏡湖池 ↓ 京都三松の一つに数えられ 船の形をしている五葉松。 義満の盆栽から移植され 帆掛け船の形に仕立てられたといわれている。 舳先は西を向いていて 西方浄土に向かう船に見立てたものとされる。 龍門瀑 白蛇の塚龍安寺京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。 石庭で知られる。 山号を大雲山と称する。 本尊は釈迦如来 開基(創立者)は細川勝元 開山(初代住職)は義天玄承である。 「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 参道にある鏡容池には 色とりどりの蓮の花が咲いていました。 山門 庫裡庭方丈庭園(史跡・特別名勝) いわゆる「龍安寺の石庭」 幅25メートル 奥行10メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め 帚目を付け 15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭である。 近世の地誌類には 室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが 作者 作庭年代 表現意図ともに諸説あって定かでない。 室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。 「石庭」の東 南 西の三方向は土塀で囲まれており 庭には白砂が敷きつめられ 15個の石が置かれている。 上の石組略図にあるように 15個の石は方丈から見て 左からそれぞれ5個 2個 3個 2個 3個の石でできた五つの組になって置かれているが 方丈からこれら15個の石の全てを見通すことのできる場所はない。 佗助椿 ↓ 「日本最古」と「豊太閤朝鮮傳来」の文字が書かれている。 秀吉が賞賛したと伝えられている「佗助椿」というのはこの木なのだろうか?! ↑ 庫裏の西側に「方丈(本堂)」が建てられている。 「方丈」は寛政9年(1797年)の火災後 塔頭西源院の本堂をここに移したものといわれている。 広間の襖絵は通常非公開である。 「方丈」は重要文化財に指定されている。 ちょっと足を伸ばして 鴨川の源流 貴船へ・・・。貴船の川床貴船の床の始まりは大正時代。行社さんらが涼むために川で一服する際 小さな床机に腰をすえて 足などを洗っているところにお茶や食べ物などをだし おもてなししていたのが始まりなんだそうです。 こんかいは流しそうめんにチャレンジしてみました。生まれて始めて体験する流しそうめん流れていく麺を取り損なったらどうしよう・・・と思っただけで緊張する・・・ 流しそうめんはとてもエキサイティングな食事の仕方でした。貴船神社5世紀初め反正天皇の代 玉依姫が水源の地を求め 黄色い船に乗って淀川 賀茂川を遡り この地にきて祠を建てたのが貴船神社の創建とされているようである。 『貴船』は『黄色い船』に由来しているともいわれている。 他に 神代の昔 玉依姫が貴船山に降臨し鎮座したのが神社の起源であるという伝説もあるらしい。 創建の時期については明確ではないようであるが 今から約1300年前の白鳳6年に社殿の造り替えが行われたと伝えられているようであるから 創建はそれよりもはるかに昔のことと推測されている。 当初 「本社」は現在の「奥宮」の場所にあったとされているが しばしば洪水にあい 天喜3年(1055年)に現在の場所に移されたという。 水を司る神様を祀っている神社が しばしば洪水に遭遇したというのは ちょっと面白い話ですね。 御神木の桂 御神木は樹齢400年 樹高約30mで 根元から多数の枝が伸び 上方で大きく拡がっている。 通常 御神木は杉などの常緑樹であり 落葉樹の桂が御神木になっているのは珍しい。 この桂の木は運気発祥の御神気が龍の如く大地から立ち昇っている姿を連 御神徳を象徴していると考えられ 御神木にされている所以はこれに基づいているという。 想させることから神水 「神水」と呼ばれている湧き水。 湧き水は背後の山から引いていると思われる。 おみくじを引き それをこの神水に浸すとおみくじの紙面に字が浮き出てくる。 勿論「神水」ではなく普通の水でも浸すとおみくじに字が出るのですが・・・は当然であるが・・・深く追求しないことにしましょう。(笑) ↑ 石庭この石庭は古代の人が祭りを行った神聖な祭場「天津磐境(あまついわさか)」をイメージして昭和40年に造られた庭という。 この「石庭」に用いられている石は全て貴船で産出した名石とされている。 本社拝殿 「拝殿」は本殿正面に向かって右側にずらして建てられており 文久年間(1861~64)の造営といわれている。そして次は本願寺(西本願寺)親鸞の末娘の覚信尼が文永9年(1272年)に京都大谷に造った「大谷廟堂」が本願寺の起源であるとされている。 大谷廟堂が「本願寺」と称するようになったのは覚信尼の孫覚如の時代であるといわれている。 その後 比叡山と対立し 寛正6年(1465年)に本願寺は破壊されたため 文明10年(1478年)に京都山科に本願寺が再建されたようであるが これも天文元年(1532年)に焼き払われたため 現在の大阪城付近の大坂石山に移り 石山本願寺が創られようである。11代顕如は石山本願寺を本拠として元亀元年(1570年)に織田信長と11年に及んだ合戦を開始したが敗れ 和歌山の鷺森 和泉貝塚 大坂天満と転々としたといわれている。 その後 天正19年(1591年)に豊臣秀吉から現在の地を与えられ 翌年に御影堂が完成したとされている。 (本願寺は各地を転々としているのであるが それらは全て争い事に起因しているように見える。 親鸞を宗祖とする寺でありながら比叡山と対立したり 何とも争い事の多い寺である。) 安穏堂 鶯張りの廊下 「御影堂」と「阿弥陀堂」は渡り廊下で連結されている。 この渡り廊下を歩くとキュキュという音が出る。 果たして 設計の段階で計算されて作ったものなんだろうか? 円山公園円山公園は 京都で最も有名な公園。 元々は 八坂神社の一部で明治維新以降に国へ納めるという形で分離された。 円山公園の敷地面積は約8600㎡。祇園枝垂桜 満開時「祇園枝垂さくら」京都一の花見の名所として有名な丸山公園。 花見の頃になると公園の入り口には露店が並び 桜の下にはシートが敷かれ 夜桜を楽しむ京都の人々でごった返す。 丸山公園の名物である枝垂れ桜の巨木「祇園枝垂桜」 大きな枝をが折れていたのが痛々しかった。 円山公園の中にある池には スッポンが住み着いていて 池の鯉や水鳥を食い散らしてしまい大変なんだそうです。円山公園には祇園祭りで使われる山車の倉庫もあります。八坂神社八坂神社は明治維新まで「祇園社」と称され 現在も「祇園さん」と親しまれています。 7月には約1ヶ月に渡る「祇園祭」 大晦日には「をけら詣」が行われ大変有名な神社です。 「北に玄武 東に蒼龍 西に白虎 南に朱雀」という言葉がありますが この蒼龍にあたるのが八坂神社です。 玄武の加茂別雷神社 白虎の松尾大社 朱雀の城南宮 そして中央を守る平安神宮と 合わせて五社で古来より京都を守ってきました。 本殿 西楼門 石鳥居は重要文化財として指定されています。 神社には30近くの末社があり 芸道神を祀る末社もあるため花町から舞妓さんなども多く訪れています。西楼門 本殿1654(承応3)年建設の本殿。 八坂神社の重要文化財。 本殿は 本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式から「祇園造り」と呼ばれている。 神社内には30近くの末社がある。祇園四条~祇園散策ちょっと歩き疲れたので 一休み。四条通にあるの甘味処 祇園小石 人気のお店のようで 沢山の人が並んでいました。抹茶パフェを食べました。祇園 八坂神社の門前町として栄えた花街。 花街は「はなまち」と読むのが一般的ですが 祇園では「かがい」と読まれています。祇園の町にはメニューが無い店があります。 これがいわゆる「一見(いちげん)さんお断り」 初めてのお客は受け入れないというシステム。 今 祇園で純粋に一見が入れない店は お茶屋と一部の料理屋ぐらいではないでしょうか。 祇園にひしめくお店の数からすれば それは数%にも満たないと思われます。 しかし その数%の中に花街があります。 どうして こんなシステムがまかり通っているのでしょうか? よく聞く理由としては 「支払いはツケが原則なので、身元のわからない一見さんだとトラブルの元になる」とか 「好みのわからない一見さんだと もてなしのし様がない」とか 「秘守性が求められる場所に 身元不明の人は入れられない」といったところが有力説です。 勿論 それらも理由の一つでしょうが 「馴染みのお客さんに、気持ち良く過ごしてもらう為」だと思います。 得体の知れない一見を断って 馴染みのお客に店の雰囲気を保証しているシステム それが「一見さんお断り」なんでしょう・・・。祇園~祇園白川辰巳大明神もともとは辰巳の方方角を守る神社であったが 祇園の人々の信仰厚く 特に芸舞妓さんが芸事の上達を祈って訪れるようになった。 春の桜の頃は 神社を覆うように桜が咲き乱れ多くの人で賑わう。 TVドラマの撮影スポットとしても人気。 ↑桑田佳祐出演のアメックスをCM撮影した場所です!!鴨川 川床を 鴨川では「ゆか」 貴船では「かわどこ」と呼ぶそうです。先斗町(ぽんとちょう) 鴨川と木屋町通の間にある花街。錦市場錦市場は京都の台所と呼ばれ 数多くの老舗が今も軒を連ねる商店街です。 古き良き風情を残しながら 今も活気に満ちたこの場所には多くの人々が集います。 京都の人々には「錦(にしき)」と呼ばれ 古くから親しまれる錦市場。 この市場の起源は約400年前までさかのぼると言われ 江戸時代から現在まで京都の人々の生活、 そして食へのこだわりを支え続けています。 錦市場は四条通の一筋北 東西に走る錦小路通の寺町から高倉までの間 約400メートルほどの区間に 130を超える大小様々な店舗が並んでいます。 市場の道幅は3mほどと狭く 店舗と買物客がとても近い距離なのが特長です。 錦天満宮錦天満宮(錦の天神さん) 御祭神「菅原道真」 繁華街唯一の鎮守社。 昔から「智恵・学問・商才の神」として全国からの参拝で賑わう。 「京の名水」も湧出。 寺町の鳥居は民家に突っ込んでいることで有名。麩嘉 絶品の麩饅頭を食す。 そして 京都最後の食事です。おばんざい「菜の花」「おばんざい」とは 京都の家庭の日常のおかず。 身欠き鰊・棒鱈・野菜・豆・油揚げなどを使った食べ物。 とても美味しいかったです。旅の最後に立ち寄った場所は3日間 一緒に回って下さった お二人のあくせ処とぅ~む本店。 一度訪ねてみたいと ずっとずっと思っていました。 店内は大好きなあくせ処とぅ~む のアクセサリーで溢れていました☆右が 熊谷社長左が デザイナーの吉田さんありがとう!! 素敵な場所・・・。素敵な出会い・・・。旅って本当に素晴らしいですね♪