★なぜカタカムナは伝承されなかったのか

 

★このブログは2022.3.1にyoutube配信した内容をそのまま まとめたものです★


こんにちは! ゆかりです
今回は カタカムナ 生命の神業13
なぜカタカムナは伝承されなかったのか です



前回の動画で

 大東亜戦争中に、楢崎皐月が蘆有三という

道教の高僧と出会い。蘆有三から
「我が中華の古代文明は、実はあなた方の国

である日本の古代文明の影響の元に発展した

のだ。

老子の古い経典にその事が書かれている。
日本にはアシア族という大変優れた民族がおり

、遥か昔から既に宇宙の摂理を知り、相当の科

学力を有し、八鏡の文字を使った」

ということをお話しました。

今回は
この日本の上古代文明であるカタカムナが
なぜ、伝えられなかったのか についてです

大野さんの書籍 生命の神業 p114
なぜカタカムナの文字が伝承されなかったのか

戦後になって、上古代は縄文時代
といわれるようになりました。

古神道家の荒深道斉(あらふかみちなり)は、昭和6年から

20回にわたって六甲山頂および山麓を探査し、


少なくとも13000年前に、わが国は非常な

大文化を有していたことが 巨石建造物の

発見で判った、と『古神道秘訣』に併冊され

た『八咫鏡』(昭和7年発行)に記しています。


ではなぜ、この地域に開花したカタカムナ

の記録や文字が伝えられなかったのでしょう。

 「相似象」によると、「2000年前に、カタカム

ナ文明は滅ぼされ、カタカムナ人の言葉の

思念は失われ、同じ四十八(48)の日本語

でありながら、我々現代人には意味の分か

らないものになってしまった」とあります

(「相似象」12号67頁)。

 それゆえに、「古事記」を見るとその序文

には「諸家のもてるところの帝紀および本辞(=旧辞)

は、すでに正実に違い、多くの虚偽を加う。

 

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

帝紀および本辞(=旧辞)とは

天皇あるいは皇位継承を中心とする古代の伝承または史書。 

欽明天皇のころ,伝承・神話を集めた《旧辞(きゅうじ)》(〈くじ〉とも読む)

とともに述作されたと考えられている。 《古事記》は稗田阿礼(ひえだのあれ)

の誦習した《帝紀》《旧辞》を太安麻侶が筆録したもの。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 

今の時に当たりて その失(あやまり)を改め

ずば、幾ばくの年を経ずして、その旨滅びな

むとす…。

 

ここに旧辞の誤り違えるを惜しみ、先紀の

誤り混じれるを正さんとして…臣安萬侶に

詔(天皇から命じられ)して、稗田阿礼が誦む

ところの勅語(みことのり:天皇の意志)の

旧辞を撰録(文章を作って記録する)して

献上しらむ」とあります。

 

このことからも、それ以前に多くの文献が

存在したことが理解できます。


 「古事記」は、第43代元明天皇の詔を

承ってから、わずか4ヶ月で完成しました

(西暦712年)。

 

その経緯は、第40代天武天皇が自ら選録

された「帝紀」「旧辞」を、後世に伝える目的

から、その編纂を稗田阿礼に命じました

(西暦685年)が、その翌年、天武天皇は

崩御されてしまいます。

 

結局、天武天皇御識見本に基づく阿礼誦習

本は未完成となりましたが、その時の編纂

が元になったのです。

 「虚偽」や「失(あやまり)」、「撰録」も、

古事記編纂者の主観であって、「カタカムナ」

の文献もおそらく、真意を解せずに、

ここで虚偽とされたのでしょう。

 

当時、官人は公的な文章として漢文体を
使うことを強いられていました、ですが、

「古事記」の選録者であった太安萬侶は
「日本の古代を叙述するのに漢文体は
ふさわしくない。日本の古代は日本の
古語や古意によってのみ表現できる」
と考えたのです。

そこで、太安萬侶は独創的な文字表記法
を発明しました。音訓公用表記法といって
漢字を訓読みと音読みとに分けて書く方法です。

更に太安萬侶は漢文を短い句の単位で
返し読みを積み重ねていくことで、
漢文の詩文さえも日本語の文法で
読み通すという、世界に類のない離れ業
までやってのけました。

漢文体を日本の言葉で読もうと考えた
実に素晴らしい方法でした。

 

 

「古事記」が書かれた当時
漢文体しか使えなかった理由
があります。その一つは、

蘇我稲目と物部尾輿との対立に
端を発していると思われます

蘇我稲目は仏教派
物部尾輿は八百万派
なんです

蘇我氏は百済(くだら)の聖明王から
送られた仏像を、第29代欣明天皇に
紹介した後 自宅で祀り また近くに
あった家を清めて日本で初めての寺と
しました


しかしその後 国中に疫病が流行ったときに
「仏魔に対する日本の神々の怒りだ」
といった物部氏は、天皇の命をとりつけ
仏像を川に投げ棄て、蘇我氏の寺に火
を付けて燃やしました


その時の確執は、次第に日本文化派と
外国文化派の対立となって広がり
そこに自国の伝統を古臭いと思っていた
進歩的な文化人たちが こぞって
外国文化崇拝の姿勢をとったのです

 

 

結果的にこの対立は物部氏が破れたことで

中国や朝鮮などからの渡来人の力を

強めることになりました。

 

 

度々の遣唐使の派遣もあって、唐と日本

の関係も親密になり、盛唐文化の影響を

受けた天平文化(西暦710~794年)が開花

しました。

 

それに伴って漢文体が公的に使用される

ことになり、それまで日本で使用されてい

た文字は使用できなくなりました。

 

正にカタカムナ語(本来の日本語)の危機

の時代でした。



「古事記」以前の日本に文字はなかった

と教わった人もきっと多いかと思いますが、
日本神代文字 古代和字総観」によれば、

ざっと数えただけでも30種類以上の文字

があります。


 例えば、神代文字の一つであるヲシデ

文字で書かれた「ホツマツタヱ」は、

大直根子が編纂し、12代景行天皇に

献上されています(西暦127年)。
 

 


 さて、中国での日本の古文書の顛末

ですが、秦の始皇帝は支那

を紀元前221年に統一しました。

 

仕えていた徐福は始皇帝に、「東方に、

宝来山の嶋あり、この山の長生不死の

薬草あり、この草を取り来たりて、君に

たまわらん」と始皇帝を喜ばせ

 

「それを探して手に入れるために船団

を賜りたい」と申し出て、期間数十年分

を見込んで大船85艘に、金銀他、諸々

品々を積み、

 

5百余人の男女を率いて不二山(富士山)

を目印に出航しました(紀元前216年頃)。

 「開闢神代(かいびゃくかみよ)歴代記」によると、徐福らが

渡来するおよそ450年前に、ウガヤフキ

アエズ朝という古代国家が終わっていますが、

 

同書によると、51代続いた統治者の多く

が不老にして長寿でした。おそらく徐福は

それを伝え聞いたかと思われます。

 日本の真価を悟った徐福ら一行は、

不二山麓に永住することとなり、

ついに秦には戻りませんでした。


 始皇帝は紀元前210年に亡くなりま

したが、その晩年(紀元前213年)、

秦の史家によるものを除いた

 

すべての史書や儒者をことごとく抹殺

する焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という

思想弾圧を行いました。

 

ここには、蘆有三老子の語ったアシア

人に関する遺書もあったことでしょう。

 

 

カタカムナが伝承されなかった理由の一つには

このようなことが、あったのですね

 

これをお伝えしたかったので

お話しさせていただきました。

 



今日はここまでです

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最後までご視聴ありがとうございます
感謝してます


ではまた