さっちゃん 甲状腺の末期癌 闘病生活の記録

さっちゃん 甲状腺の末期癌 闘病生活の記録

私の母(さっちゃん)が甲状腺の癌になって15年。
手術を4回、放射線治療を経て、ついに治療法がなくなってしまいました。さっちゃんの闘病生活に真っ向から立ち向って、幸せなことも辛いこともすべて闘病生活の記録として残したいと思います。

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久しぶりにブログを開きました。
 

今のようにFacebookなどのSNSもない8年前。

このブログは、介護の辛さを吐き出す唯一の場でした。

 

さっちゃんが亡くなってから、

1年後に父を一人実家に残して、嫁ぎました。

その後、息子が生まれました。

さっちゃんに見せたかった。

いや、見てくれてるよねと言い聞かせながら、

初めての育児を楽しみました。

 

あー、赤ちゃんってこんなにお世話しないといけないのかと

こんなに泣くんだ、こんなに無力なんだ、

私もそうだったんだって思うたびに、母への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

同じくらいの年頃の子供を持つ友人が、母に子供を預けるという話を聞くたびに

本当にうらやましくて、寂しい気持ちになりました。

 

父が昨年10月に他界しました。

さっちゃんが亡くなってから、約7年。

アルコール依存症の父には本当に迷惑をかけられっぱなしでした。

父は、母が亡くなってから、もっとお酒を飲むようになりました。

一緒に住むこともできず、晩年はケアハウスへ入居していましたが

タバコが禁止されている室内での喫煙や、深酒で周りの方にたくさんご迷惑をおかけしました。

ケアハウスにはたまにしか行かなかったし、

お酒やタバコを自由に与えたくないために、お金の管理もしたので、

いつも嫌がられていました。

母が亡くなってから、

一度だけ、父の故郷の高知県まで私の家族と一緒に旅行をしました。

その時も、親戚のお家で泥酔してしまい、怒った私は帰り道、一言も口をききませんでした。

 

それでも、私がたまにケアハウスに顔を出した時は、

「気をつけて帰りーよ、ありがとう」

と言う父でした。

最後は、風邪からの肺炎、敗血症が原因で亡くなりました。

父にとって私は親孝行な子ではなかったと思います。

大変寂しい思いをさせました。


父と母が頑張って建てた実家は、姉2人に相続放棄をしてもらい、私が相続することになりました。

まだ手続きが完了していないし、実家の荷物も大量にあるので、まだまだこれからやることがいっぱいあります。

2人とも他界してしまい、姉二人とも疎遠になり、こんな日が来るとは考えもしなかったなあと思います。

特に母については、いつまでも生きていて当たり前だと思っていました。

実家に戻り、色あせた誰もいない部屋の中にいると、息が詰まりそうになります。

やっと生命保険等の手続きも終わったので、

実家の解体や、墓じまいもしていかなければいけません。

 

 

今年で、息子は6歳になります。4月には小学校に入学します。

卒園式には、母の着物で参列したいと思っています。

私が保育園を卒園したとき、小学校に入学したとき、

その頃の母との記憶があまりありません。

 

小学校の運動会の時に、職場の人と一緒に応援に来てくれたことや、

中学校や高校のときに、母の運転する車で通学をしたことなど、

断片的には覚えていますが、

肝心な日常の記憶がほとんどありません。

 

そんな日常、小さい頃どうだったのか、

私が先に他界しても寂しくないように、手紙を書こうかな。

そんなことを考える今日この頃です。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

さっちゃんの最期をしっかり記録したいと考え直し、書いています。

たしか最初に甲状腺癌と診断されたのは15年ほど前でした。
首にぽこっとしこりのようなものができて、原因不明で気持ち悪いからと病院で検査してもらったら、甲状腺癌でした。
癌と言う言葉に恐怖はありましたが、甲状腺の癌は生存率が高くかなり長生きできる癌のようだったのであまり心配していませんでした。
癌の摘出手術後にお見舞いに行きました。甲状腺の半分を切除し、リンパ節に転移した癌を取り除いたそうです。鎖骨の下あたりを横に一直線に傷跡が残っていました。
術後、元通り元気になり、一安心。

その後、3年に1度くらいのペースで首のリンパ節に再発し、計4回ほど手術で摘出しました。
最終的には甲状腺は全て切除され、毎日甲状腺ホルモンのクスリを服用するようになっていました。

2009年10月、また再発したと母から連絡がありましたが、これまでも手術することで数週間後には働いていましたから、今回も大丈夫かなと気楽に考えていました。
ただ、このとき母はもう手術はしたくないと頑に拒んでいました。
私は手術を進めましたが、手術以外の方法で頑張ってみると放射線治療を受けはじめていました。

約10年ほど前から東京で一人暮らしをしながら働いていた私は、必ずお盆とお正月プラス姪っ子の運動会にあわせて帰省していました。
2010年お正月、帰郷したときに母の首はぽっこり腫れて、放射線治療の影響か肌が茶色くなっていました。癌は大きくはなっていないが、小さくもなっていない。放射線治療の効果があまり出ていないようでしたが、本人はもう少し頑張ると気丈に振る舞い、いつも通り家族で幸せなお正月を過ごしました。

1月下旬。東京に戻り仕事でぐったりしている私のもとに母の従姉妹から1本の電話がありました。
「お母さん、相当悪い状態だから、できたら帰ってきてあげて。いくら電話で言ってもわからないだろうからお母さんの様子を見に帰っておいで。帰ってきて自分で決めなさい。」と言われました。
仕事もあるし、相当悪いと言われても、お正月に会ったときには元気だったし、、、

2月に帰郷。
私が帰ると母は布団で横になっていました。横になっているといっても座布団を高く積んで背もたれにして座っているようでもありました。
横になりたいけど、体が痛くて横になれないんだと言っていました。
一緒に食事をしましたが、苦しそうに一口ずつ食べます。
首の腫瘍が大きくなり、肉腫が肌を突き破っていました。ガーゼで頻繁に分泌液を拭っていて、拭うのが痛いと言っていました。
父は家事ができなくなってしまっていた母に冷たい言葉を浴びせていました。
「家で飯も作れんのやったら病院に入院せい。」とか「はよー飯を食え」とか。
私は腹立たしく、なぜ思いやってあげないのかと、大げんかをしました。

このまま父と母だけにしておけない。姉2人がいますが、2人とも嫁いでいて子どももいます。
独り身の私が帰るより他に方法がないと思い、会社を休業し、しばらく一緒にいようと決断しました。

バタバタと2月末に引っ越し。
後先考えず、会社を休業し、東京の家賃を払っていける自信がなかったので、賃貸マンションを引き払いました。
帰ってきた初日、母と一緒の布団で寝ました。
母が手をつないできました。私が帰ってきてくれて本当に嬉しいと泣いていました。

2月~4月。
ベッドから立ち上がるとき、痛みで起きることができません。
腕も上に上がらなくなっており、介護ベッドをレンタルしようと考え、
介護保険で安くレンタルできることを知り介護申請をしました。
介護保険について何も知らなかったので、沢山勉強しました。

痛みを訴える母を病院に連れて行き、先生や看護師さんに日々の状況を説明します。
私がだまって聞いていたら、先生に大丈夫かと聞かれると、大丈夫だと答えてしまいます。
どんなに痛がっていても、先生の前にくると”少し”痛いと。心配させまいとしているのか。。。
先生に、普段どんなに痛がっているのかを私から伝えると、モルヒネを処方されました。
モルヒネに抵抗感はありましたが、受け入れるほかありません。
副作用として、ウトウトすることが増える、意識がモウロウとすることをあげられました。
医師から、薬を飲む時間を細かく設定され、必要以上に飲んではいけないと厳重に注意されました。
モルヒネを飲み始めてから痛みから少しの時間解放され、ゆっくり眠れるようになり、私の介護も少し楽になりました。
薬の副作用からか、ちょっととぼけたことを言うようになり、薬を飲んだ時間を忘れてしまいます。
本格的に呼吸が苦しくなっていて日中夜関係なく背中をさすってあげること、薬の管理、母の気持ちによりそうことが私の大事な仕事でした。


5月。
母は父と一緒に寝たいと言いました。
長い間、別々の部屋で寝ていたようです。父は母のいびきがひどいからイヤだと断りました。
母は、喉の癌細胞のせいで大きないびきをかくようになっていました。
私はそんなことを言う父が更に嫌いになりました。
姉2人は、元気でない母の事を面倒くさがっていました。実家から車で1時間程度のところに住んでいるので1ヶ月に1度も帰ってきませんでした。

家族が理解してくれないので少し疲れてきていました。
母の従姉妹だけが毎日顔を出し、優しく接してくれました。
母の従姉妹とブログだけがはけ口でした。

友人の紹介で、自宅でできる仕事を受け始めました。
簡単なホームページ作成ですがとてもよい息抜きになりました。


6月。母の従姉妹に付き添いをお願いして、私は仕事の打ち合わせに行きました。
打ち合わせに出て間もなく、従姉妹から電話があり、かなり苦しそうだから病院に入院させるよと電話が入りました。
入院するほど大変な状況か自分が見ていないので最初は反対しましたが、従姉妹は元看護師だから任せようと思い直しました。

入院して検査後、病院の先生に母の喉のCT写真を見せてもらいました。
びっくりするくらい、呼吸する管・食事する管が癌に圧迫され、つまようじがやっと通るくらいの細さになっていました。
こんな状態になっていたとは。。。
外見からも、癌細胞・肉腫が外に突出してきて分泌液がずっと流れている状態ではありましたが、
体の中をそれほど蝕んでいるとは想像できませんでした。。。
母には伝えれませんでした。
病室に戻ると、母が「もう長くないだろうな」とつぶやいて、
「そんなことないよ」と言えなくて、声を殺して見えないところでただただ泣いてしまいました。


入院した後も、毎日、日中夜関係なく、何度も苦しいから背中をさすってほしいと起こされていました。
私も眠たいので意識がぼんやりしてましたが、さっちゃんの側にいれることが幸せなんだと自分に言い聞かせ、この頃になると姉も少し協力してくれるようになり、母の従姉妹と交互に、仕事を休んで交代してくれましたが、私は母が心配で、実家に戻ってお風呂に入って3時間くらい仮眠をとったらすぐ病院に戻っていました。
姉から聞いたのですが、モルヒネで少しおかしくなっているときに、「なんで○○(私)がいないのか、○○をどこに隠した?」と姉に脅迫めいたことを言っていたそうです。
姉のことを忘れているようだったとショックを受けていました。
私も病院に戻り、姉が帰る頃には、姉の存在を認識し、御礼を言っていました。
痛み止めの副作用で時折、突然「宇宙人がくる~!」と言ったり、「あんたは私をだまそうとしている」と言われたりもしました。

呼吸困難になる度になぜか排泄をしたくなり、オムツにしていいんだよと言っても、
私の力を借りても、簡易トイレで用を足そうとします。
子どものオムツを替える前に、母のオムツを替えることになろうとはと思ったこともありましたが、受け入れるほかありません。
看護師さんが、「排泄をするときは大変でしょうから遠慮なく呼んで下さい」と言ってくれましたが、まださっちゃんに恥ずかしいという気持ちが残っているので、本当に眠くてきついとき以外はお願いできませんでした。


6月15日
夜中3時頃、苦しがるさっちゃんが急に「じいちゃんとばあちゃんに会えるんてね」と突然言い出しました。いつもの、痛み止めの副作用で少しおかしなことを言ってるだけだとその時は思っていました。
朝6時頃、様態が急変しました。
呼吸が薄く苦しがっています。
看護師さんに、会わせたい人を至急呼んでくださいと言われました。
何がなんだかわかりませんでした。
父はいつも通り7時にやってきました。姉2人と母の従姉妹に連絡しました。
いつも見舞いにきても顔を見せたらすぐいなくなっていた父が、久しぶりに少しだけ背中をさすってあげていました。
看護師さんに、「何か処置はできないんですか?」と聞くと、
「そういうの希望されますか?」と言われました。
「そういうの?」と聞くと、「延命措置です。呼吸器を着ける等できますが、着けると外せませんよ。」
父が「もういいよ」と言いました。
姉2人と母の従姉妹にも電話で相談しましたが、お母さんは延命処置を望んでいないだろうという結論が出ました。
涙が溢れ出ました。

午後には、準備していたホスピスに転院する予定でした。
自宅よりは私に負担がかからないと思っていたようですが、ホスピスに転院することを本人はあまり快く思っていないようでした。
入院してたった2週間。「もう長くない」と言っていましたが、自分の命の残り時間を一番分かっていたのは母かもしれません。


東京で働いていた私を連れ戻そうと力を貸してくれたのは、元看護師の母の従姉妹でした。
従姉妹は、近い将来こうなることを知っていたようでした。
母の従姉妹には、最期に母と濃密な3ヶ月間を過ごすことができて本当に感謝しています。

お葬式は自宅でひっそりとと考えていましたが、
予想を超えるたくさんの方が参列くださり、
用意していた150席では足りずご迷惑をおかけしました。
母の人望を、初めて知りました。

生前、母は3姉妹が実家に帰ってくるのを楽しみにしていました。
60歳を過ぎてなお、仕事を続けながら、家中にお花を生け、料理は得意ではなかったけれど、心のこもった料理でもてなしてくれました。
布団も必ず天日干しをし、家中を大掃除して、庭木の手入れも、本当に働き者でした。
そして何より、家族だけでなく他人の幸せを強く願い行動する人でした。
職場でも世話好きでひょうきん者だったと聞きました。
もう実家に帰っても母がいないのだという現実を受け入れがたいですが、時間をかけて受け入れていくしかないですね。
享年64歳。早すぎる死ですが、人間いつ死ぬなんてわかりません。
私自身、明日命があるかどうかすら本当は誰もわからないのに、生きていることが当たり前だと思ってしまいます。

このブログには、母の介護を通じて、日々感じたことを感じたまま書いています。
今、過去の記事を見直すと、たった3ヶ月間なのに忘れていることもあったりして、
ブログを書いて本当によかったと思っています。
これでブログを閉じます。
これからの人生、儚い命、母の分も、一日一生の気持ちで強く生きていきたいと思います!
本日、お昼の12時半に急逝しました。
さっちゃんブログをこれで終了にします。
これまで見てくださったり、コメントをくださった皆様、本当に有難うございました。

入院した当初は、トイレ等、体を動かしたりしたときに呼吸困難になって体中が熱くなる発作のような症状が出ていたのですが、昨日からは飲み物を飲んだ後に発作が出ているようです。


薬飲めなくなるのかな・・・。

今日は、姉が日中交代して”さっちゃん”の側にいてくれたので、実家に帰ってゆっくりしました。


姉と交代するときに、姉が”さっちゃん”のことを「お母さん」と呼んでいたのを聞いて、当たり前のことを忘れていたなと思いました。

4月に実家に帰って来てから、母のことを”さっちゃん”と呼んでいるのですが、

”さっちゃん”が元気なときは、私も「お母さん」と呼んでいたことを思い出しました。


私の携帯に、「お母さん」と呼んでいたときの”さっちゃん”の写真が保存してあります。

ちょうど1年前に、「お母さん」が従妹と一緒に熱海・箱根・東京に遊びにきたときの写真です。

仕事を休んでレンタカーを借りて、熱海、箱根、東京を案内しました。


箱根で撮った「お母さん」と従妹が二人で並んでいる写真は、今の”さっちゃん”とは別人です。

顔も体もふっくらしていて、東京で一人で住んでいた私のことをいつも心配してくれる「お母さん」でした。

優しくてどんなことがあっても気丈に振舞っていた「お母さん」を忘れちゃいけない、そう思いました。


今日、暇潰しにと何気なく買った雑誌に、介護うつに関する記事がありました。

2004年に厚生労働省が在宅介護に関する調査をしたところ、全体の約四割が老人が老人を介護する「老老介護」であるという実態が明らかになったそうです。
また、同調査では在宅介護者の4人に1人が介護疲れによる「介護うつ」状態であるという背景から、介護者の自殺や無理心中、介護施設での職員による高齢者の虐待等の事件が増えてきていると書かれていました。

こういう記事を見ると胸が痛むのは私だけではないと思います。

私もさっちゃんの介護で正直多少の疲れは感じています。
私みたい?な頑張りすぎる傾向にある人が一番気をつけなきゃいけないこともわかっています。
対策として、私の場合は4つのことを実践しています。
①このブログを通じて自分の気持ちや状態を応援してくれる友人・姉に見てもらってコメントや意見を聞く
②睡眠不足を2日以上続けない
③1日15分は歩く等の運動をする
④介護を忘れることができる趣味を楽しむ


④は、本当に実践してるかというと、、、読書くらいしかできていません。
ああ。久しぶりにゴルフやりたいなぁ~ゴルフ
コースで思いっきりドライバー飛ばしたい(笑)

今日は、はじめてさっちゃんを車椅子に乗せて病院内を散歩しました。

病院内のコンビニに行って、ジュースと飴を買ってもらって嬉しそうなさっちゃん。

点滴のせいか、顔が少しふっくらしていて小さい子みたいな顔をしています^^

コンビニの後に、外に少し出ようと思っていたのですが、

体がきつくなったようなので今日のお散歩はおしまいです。


また、お散歩に行こうね。

今朝、主治医に症状が落ち着いているみたいだから、自宅に帰ってもよいと言われましたが、夜中の発作的な呼吸困難の症状は私1人では自信がない旨をお話したところ、ホスピスへの転院を検討してみないかとお話がありました。
早速、電話で家族会議をしてホスピスへの転院をする方向で話がまとまりました。
あとはさっちゃんへの説明です。。。


今日は、朝から父と交代してお家に帰ってきて3日ぶりのお風呂に入りました。
さっちゃんもお風呂に入れてあげなきゃ。。。

ごめんね、さっちゃん。
ちょっと寝たら行くからね。。。
四月にさっちゃんの看病のため、後先も考えずに会社を休職して実家に帰ってきて約2ヶ月たちました。

昨日、これ以上会社に迷惑を掛けれないので、会社を退社しようと考え、上司に辞意を伝えました。
すると会社の上司から、早期退職制度の利用をすすめられました。
ちょうど来週月曜日までに早期退職者の申請を受け付けしているとのお話でした。
だから今は、この制度を利用して金銭的な不安を抱えず、余計な心配をしないで実家のことに専念してほしいとあたたかい言葉を頂きました。
更に、あと数ヶ月~二年以内に実家が落ち着いて社会復帰をしたい時期がきて、東京で仕事がしたいと思えば復帰できる仕事も準備しておくとおっしゃってくださいました。

中途半端に仕事を投げ出して、こんなあたたかいバックアップを頂けるなんて、考えてもみませんでした。

早速、さっちゃんにも報告して、しばらく仕事をせずにさっちゃんの看病できるよ、神様っているねって話したら、「だから神様はいるって言ったでしょ」ですって(笑)
薬の副作用か、腕や鼻に繋がっているチューブを見てパニックになったり、食事もとれないくらい苦しい状態で、たまに見せるさっちゃんの気配りには参ってしまいます。

お見舞いにきてくれる友人や姉、父に、気をつけて帰るように、心配かけてごめんねと、か細くなった呼吸の合間に一生懸命喋ります。
私にも何度もごめんね、ありがとうと言葉をかけてくれます。

そして、こんなに沢山の人に心配して頂いて、よくして頂けるのは親の徳のおかげだとさっちゃんは話します。


いつも謙虚で人への配慮、思いやりの気持ちが強いさっちゃん。
さっちゃんの子供でよかった、さっちゃんがお母さんで本当によかったと今になってようやく本心から思えるようになりました。