リベラリズムの衰退は、すぐに日本にやってくるのだろうか。
なぜなら私たちの知らぬ間に、日本は世界第4位の移民大国となったからである。
この本を読めば欧州リベラリズム国家の複雑な心理、つまり本音と建て前の屈折した心理や、かつての帝国主義の罪悪感からくる差別主義の隠微が見え隠れする。
これは欧州人だけではなくアメリカにも存在すると思うが、隠れ蓑としての日本の戦争犯罪の喧伝は西洋のそれとは雲泥の差かもしれない。

さて、この本を出汁にして、私は「センメルヴェイスの悲劇」を記録しておきたいと思ったのだ。
先日、ステファニー・ケルトン教授が来日した。中野剛志教授や藤井聡教授たちが中心となって招聘したようだが、49歳の金髪美人なので一気に心を奪われてしまった。
そんな折りに、MMT(現代貨幣理論)に希望を見いだしたとAさんから連絡をもらい、MMTの詳細を調べていたら、センメルヴェイスを知ることとなった。

先ず彼の概略を書いておこう。
1800年代初めのハンガリー人の医師である。
オーストリアのウィーンの病院で勤務をしていたが、助産婦と医師が行う分娩の産褥熱の発生率が10倍も違うことに疑問を抱いた。
この原因を調べようと、友人の法医学者が産褥熱で死亡した検体解剖を学生に指導しながら行っていた際に誤ってメスで指を切創し、そのまま解剖を行った後日、産褥熱と似た症状で死亡した。
彼は死体の破片が医師の手に付着していることが死因であるとし、それが臭いであると考え、塩素水で手を洗うことで臭いを取り除き、結果産褥熱による死亡者は激減した。
そして塩素水による消毒が産褥熱を激減させることを啓蒙しようと多くの病院を回るが、些か強要や脅しに近いものであったため同業者は門前払いし、彼を危険人物扱いにした。
彼を精神病院に入れようと呼び出した際に、異変に気づき逃げようとしたが、施設の職員から殴打を受け、その時の負傷が元で施設で死亡した。
センメルヴェイスの説が受け入れられなかった最大の理由は、患者を殺していたのは医師の手であったという、医師にとっては受け入れがたい結論にあったと言う。
後年パスツールは、センメルヴェイスが消し去ろうとしていた殺し屋とは連鎖球菌であると発表した。(Wikipediaより要約)
これらの事例から、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを「センメルヴェイス反射」と言う。

私たちは間違ったことをなかなか修正できないような身体の仕組みになっているようだ。
それは集団行動が子孫の継続につながるものであり、多数であることは精神的な負荷がかかるものではなく、いわば脳に焼き付けられた本能だということだ。
天動説が主流であった時代に、コペルニクスは地動説を唱えた。ガリレオは彼を以前からあった仮説を復活させて確認した人と言ったそうだが、仮に誰もが分かっていることでも改めて発言するのは確信と覚悟のいることだと思う。
アップルの以前のキャッチコピーで「Think different!」というものがあった。
考え方を変えることは、視点を変えることでもあり、違った見方ができるようになる。オズボーンのチェックリストを持ち出すまでもなく、視点を変えることが必要なのだ。
目から鱗の発想はそうそう簡単ではないが、では何から始めるかと考えあぐねてみると、やはり疑うことしかできないのかと思う。いやいや待てよ、それは人為的過ぎやしないか。
ルソーは自然回帰を唱えたようだが、その意味するものは常識や慣習を疑うことにあったという。浅学の身ながらそのことに付け加えたいのは、「花は野にあるように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく、冬は暖かに、刻限は早めに、降らずとも雨の用意を、相客に心せよ」という茶道の真髄であり、無為自然という、足し算も引き算もない概念である。
結局どうなんだと言われそうだが、ひとまずの結論を書いておこう。無為自然と言うなら、思い込みを外に置き、事実のみを検証しながら積み重ねていくしかないと思うわけである。

歴史は繰り返すというが、その心はと問えば、世代の繰り返しだと思うのだ。間違いを繰り返しながら文明や文化は進化を続けるが、過ちは何度も繰り返されていく。
人間とはそうしたものかもしれないが、心のどこかに父祖たちが考えたこと以上のものを獲得したいと思うことが、儚い夢だと断定するのは余りに寂しい。

MMTは上限域を把握できれば国民の幸せにつながるものだと思うし、かといって現在の権威は総論に異を唱えている。
私たちは大きな錯覚と誤謬の世界にいるのではないか。真に透徹した第三者的視点が必要なのかもしれないが、やはり凡人はここで打ち切ることにしよう。