夫婦というもの。 | 漁師,ぴんぴん物語 EpisodeⅠ

夫婦というもの。

昔、結婚について、少しだけ記事を書いた 。今日はそれの続きみたいなもの。もいっこのブログであるEpiⅡ的記事でもあるけれど、一般論に近いものなのかな、と思ったのでこっちに書き残したいと思う。


先日の記事では結婚について書いたが、今日書こうとするのは、夫婦について。同じようで、この2つは違う。結婚はその行為自体を指したけれど、今回はそれがずーーーーーーーーーーーっと続いて、その過程や結果を指すから。


この一週間という短い間で、2つの夫婦の姿を見た。2組とも、ともに何十年、夫婦生活をしたものだし、旦那が上、妻が下、そんな上下関係が見られるというところでは、コテコテ昭和の夫婦関係って匂いがする。

でも状況は、それぞれ違った。片方は夫婦の今までとこれから、というものであったし、もう片方は、夫婦の終わり、だった。そこで感じたことをつらつらと書きのこしたいと思う。


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ある日大学院の同じ研究科の人たちを集めて、お昼に食事会を開くことになった。

その中には60歳くらいの男性がいる。奥さんもいる方だ。銀行員としての仕事をやめられてから、大学院に入られた。でも足を不自由にされて車椅子生活なので移動も簡単じゃない。それで奥さんが毎朝、毎夕、と送り迎えされている。その光景はごくたまにしか見ることはなかったけれど、奥さん、大変なんだろうな、そんなことをふと感じていた。

食事会で、お店選びに困った。バイキングの店か、普通に注文するようなお店にすべきか。自分はその人のこと・・・というよりも、むしろ奥さんのことが気になって、バイキングには反対した。奥さんもせっかく食事会に来られるのに、みんなと話す時間だって欲しいだろうから、一々取りに行かなきゃいけないバイキング形式はやめた方が良いんじゃないかとか。でもその奥さんの了解も出て、結局バイキングになった。

杞憂、だった。考えすぎ、なのかな。奥さんはその男性のために食事を取りに行くことをぜんぜん厭わない感じだった。たまに送り迎えしているとき、控えに立って待ってる姿とか、会って会釈すると笑顔で返してくれるところ。結局、それが奥さんにとって――苦でないかどうかは決しって分からないけれど――それを自分のすべきことなんだと、しっかり受け入れているようだった。

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ある夫婦が終わった。終わったのとは少し違うかもしれない。夫婦ともに亡くなった、だから終わった、というのが正しい。

その夫婦とは6月末に亡くなった伯母であり、数日前に亡くなった、その伯母の夫である伯父だ。数日前、神奈川へ日帰りで行き、通夜だけ参列してきた。


伯父は私が小さいころから――もう15年も前にもなると思うが――体の調子が良くなかった。目を悪くし、他の体のどこかも悪くしていて、伯母無しでは全く何もできないという状態が長く続いてきた。小さいころ、東京中野の伯母の家に行くたびに見てきた光景は、自分ひとりでは何もできない伯父が、伯母にあれこれ言う光景であり、それに文句一つも言わずに従っていた伯母の姿だった。


伯母は、その後も子供――つまり私の従兄弟に当たる――たちが抱えた問題についても伯母一人で何とかしていった。伯父が何も出来ない以上、伯母がする他なかったというのもあった。ある部分、過保護なところもあったのかもしれない。


伯母が自分の病に気がついたときには、もう時が遅かった。末期癌でも二番目に悪い状態だった。伯母が末期になるまで自覚症状もあっただろうに、長いこと病院にいかなかったこと、これは色々理由があったのだろう。何が本当の理由か、私は分からない。ただ、常に近所に住み、伯母と会っていた私の実父や妹は、その理由は伯父にあった、と言い切っていた。伯父がいなかったら、もっと他の人生もあっただろう――伯父の世話に人生を費やすこともなかったし、他の人生の楽しみを謳歌していたはずだ――といって、伯母の死の直後、二人が別々の場所で、伯父を憎んでいる、と口ずさんだのが忘れられない。


実父や妹の言葉はともかく、伯母は、確かにその半生を伯父に費やしたというのは確かだったと思う。その苦々しい実証なのかもしれない、結局、伯父は伯母が死を迎えて、結局半年という短い期間で体調を崩し、亡くなった。まるで伯母が世話をできなくなったからか。従兄弟が先日の通夜で言ってた。「まるで追ったようだった」

確かに伯母は、半生を費やした結果、かなりのものを失った。伯母が末期癌になるまで病院へ行こうとしなかったのは、そんな急がしさもあったからというのは、事実なんだろう。でも、それに伯母は後悔していたのか、そんな風に私は最後まで思い切ることはできなかった。


あまりに痩せた伯母――なのに、その年を重ねたことで、私の祖母にあまりに似てきたという、どこかに懐かしさも感じさせてしまう姿――に、3年半ぶりに病院で会ったとき、自分が「こうなっちゃってね・・・」と悔しい言葉を発していたのは確かだった。自分も何でこんなに人のために尽くした人間が70で亡くならないといけないのは何でなのか、伯母に会ってから、死んだ後も納得できなかった。


でも、尽くしたこと自体に伯母が後悔の念を抱いていたか、それは直感的だが、大きいものではなかった、そんな風に思える。


病気になるホントに前、私の小さいころ、伯母は、よく「伯父の一族の仏壇に線香をあげて」と、私や私の妹によく言ってた記憶がある。伯母は伯父の両親にそれなりに礼、恩義を感じていたようだった。また、伯母は、確かに優しい人間だった。だから、決して、その家に嫁いだことを後悔している、そんな風には思えなかった。


夫婦になり、それが続くということ、それは自分をどれだけ相手に捧げることが出来るのか、時にそれをお互いがし合え、許せるのか、そこに鍵があるように思えてくる。

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これからも夫婦生活が続く夫婦、今夫婦生活を終えた夫婦、そうした違いはあるが、同じ人とずっと一緒にいつづける/いつづけたこと、という部分では変わらないし、またそこから見えてくる夫婦というものが続く鍵は、ある程度同じように思える。

先の奥さんであれ、後の伯母であれ、恐らくは自分なりに犠牲になったものもある、そう感じている部分は絶対あると思う。でもそれを軽く超えた、何か自分の決心、それが絆か義務感か分からないけれど、それがあるんだなとも感じる。

夫婦が続く秘訣としては、前のブログの記事でも書いた。「やっぱ、自分の大事にしているものを、自分のことのように大事にしてくれてるってことじゃないかしら。」という別の伯母の言葉は、また違う意味を包含しているように思えた。

相手の抱えるものを、どれだけ自分も一緒に背負っていく決心があるかというところか。

まぁ結婚とは契約だし、契約時点でそれは義務として生じるわけで、かつ離婚すればその契約も、ある程度は無効性を持つのだけれど、その決意ってすごい労力の要るものだとつくづく感じる――私の親はそれを結局貫徹できなかった人間なわけだ――しかもその決意は、人が外から見ているものより、はるかに大きいものなんだということを。それを感じさせる、2つの夫婦の姿だった。


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最後に本当に個人的なことになるが――といえ、上に書いたものも十分個人的だけど…苦笑――自分は、「結婚や夫婦生活」にある「決意の強さ」は、前のブログの記事で触れた別の伯父・伯母にたいして、確かにその「確固たるもの」の存在を感じた。


でも、やっぱそんなのその伯父・伯母の例だけに過ぎない、そんな風に悲観的に冷めてみている自分が確かにいた。でも今回のその男性と奥さんの姿を見て、亡くなった伯父と伯母の一生を振り返って、もっとポジティブに捉えてもいいものなのかな、とか感じれるようになってきつつある。


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今回のいずれの夫婦の姿も、それは非常に「古典的」な夫婦の姿だった。今や、確実に夫婦の関係というのは、昔とは変わった。もちろん変わっていない部分もあるが、その関係は「こうあるべき」というのはだいぶ変わった、と言っていいはずだと思う。2組の夫婦で見た、ここまで「妻」が「夫」に尽くすべき、という形は絶対ではないはずだ。どっちがどっちかを負う、そうでなく、そのときに負うことができる方が負えば良い。生き方の分担のあり方、それは確実に変化したし、その変化の流れは、私も正しいと思っている。


ただ、このことについてはまだ色々な意見があると思う。時代もまた変化する。だから、今回のことで得られたものも、また絶対的なものじゃないんだろう。