実話を映画化する意味を問う。 | 漁師,ぴんぴん物語 EpisodeⅠ

実話を映画化する意味を問う。

--------その信念の源泉は何か??


       ~ヴェロニカ・ゲリン~
       

今日、ご紹介する映画は「ヴェロニカ・ゲリン」。主演は「エリザベス」などで知られる、ケイト・ブランシェットです。ちなみに、私はこの女優が好きです。なぜか?単純に、綺麗だなぁと思うからです。顔・スタイル云々以上に、その空気感に惚れて、早5年ほど経ちます。でも、残念ながら、人妻なんですよね・・・それを知った時のショックったら・・・残念なばかりです(笑)


さて、話が脱線するのもそこそこに、簡単なあらすじを追ってみましょう。


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1996年6月、アイルランド・ダブリンの交差点でアイルランド国内の大手新聞社に勤める記者ヴェロニカ・ゲリンが凶弾に倒れるという事件が起こる。彼女がその二年前から目にしてきた「注射」を遊び道具にする子どもたちの姿。それは、街の子どもや青年、少女たちの生活にはびこる「麻薬」と、それに絡む犯罪の取材を行なっている最中の光景だった。当時のアイルランド社会では「麻薬」とそれを取り巻く構造に対して、積極的な対応が取られているとはいえない状況。そのような中で「麻薬」と「麻薬犯罪」に立ち向かおうとするヴェロニカ。


彼女は、その最期を迎えるまで、どのような戦いをしていたのか。どのようなことと向き合い、そしてその中でどのような選択をしていったのか。本作はヴェロニカ・ゲリンが社会と戦った2年余りを映画化したものである。

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監督はアメリカ人であるジョエル・シューマッカー。アイルランド人であるヴェロニカ・ゲリンを描くのだから、てっきり英国人監督がこの映画をつくっているのだと思っていました。しっかりハリウッド映画だったのですね。


ところで、この映画を見て、いくつかの感想を持ちました。①実話の映画化の難しさ、②真実を追うことの意義、③映画で描ききれなかったことに対する不満の3点が挙げられます。


実話の映画化の難しさ

この映画は実話ですが、実話というのは、非常に描くのが難しいといえます。実話の映画化には、「現実に対する評価」と向き合う必要が生まれるためです。それがどこまで真実を描き切っているのか。またどれだけ正当な評価であるのか。どれだけのヴァイアスがかかって描かれていることに、見る側はどこまでそれを認知しながら見ることができているのか。こうした点で、大きな難しさを伴うことは避けられません。


話が少し逸れますが、私がこの映画の映画評を書く前に、実はだいぶ前にみた「実尾島(シルミド)」という韓国映画の映画評を途中まで書き上げていました。でも途中で、この映画の評価がかなり難しいことに気がつきました。なんせ、この映画は実話であり、かつその中身にかなりの真偽の問題点があること(各機関による調査の前に公開したため、社会的認知と検証、映画化といったものが順番が逆になった)、また、この映画の実話の延長線上にある「根本的な問題」である南北朝鮮の分断問題は「現在進行形」であることがその理由です。ちなみに、私の指導教授はこの映画を見て「韓国に危機意識が感じられない」とばっさり切ってしました(笑)なお「実尾島(シルミド)」については、またの機会に触れたいと思います。


話を戻すと、本作の場合、「基本的に終わったこと」に対する評価であり、相当の資料が残っていることもあるようで、かつスタッフ・出演陣は実際にダブリンで関係者と直に面会し、かつ撮影も現地で行い、また長期間滞在したようで、相当真実に近いものといえるでしょう。


真実を追うことの意義


ただ、難しい部分が、ヴェロニカ・ゲリン彼女そのものの生き様に対する評価といえます。この映画は、結局彼女が最期を迎えたことを契機に、アイルランド社会における麻薬犯罪とそれを取り巻く社会に変化が起きたことを指摘しつつ、彼女を神格化するかしないかの微妙なところで映画を終えています。結局、この映画ではヴェロニカを「聖者」として捉えたかったのか、それは微妙な点で分かりかねます。ただ、この映画を見て、彼女のことを聖者であったと感動し、彼女は凄い人だったのだね、ということで見る側が見終えてしまっては、あまりこの映画の意味は少なかったといえるかもしれません。


実話を追うことは、その教訓を提示することがなければ不十分に思えます。それこそは、映画を描く側の主観に基づく部分があるかもしれませんが、そここそ、映画の描き手の「能力」を発揮する部分でしょう。そうでなければ、単なる伝記の映画化に終わると思え、その意義は減るのではないかと思います。あとは、映像の「小手先」の技術を多用することに終わるだけでしょう。


この映画は見ていると、実際に短い映画ではあるものの、その実際の時間以上に、早く終わる印象を受けます。それは、映画冒頭の仕掛けがその理由としてあるのでしょうが、その仕掛けのせいか、映画中、ずっと緊張感を持って映画を見る羽目になります。ただ、そうした映画の手法は、この映画に書かれるべきであった本質的なものではありません。緊張感を感じるだけなら、アクション映画で十分です(苦笑)


確かに、彼女の悲劇がとても哀しいことであることは確かであるものの、この映画からは、より彼女の意思がどのように生かされたのか。意思がどのように残されたのか。そういったことをより描く必要もあったと感じます。その不十分さが惜しくてなりません。結局、聖者としてのヴェロニカ・ゲリンを描くに終始してしまったとするならば、それが映画の主題だったとはいえ、この映画は「ヴェロニカ・ゲリン」の「入門編」に終わってしまったといえるかもしれません。それを特に感じたのは、次のこともあったためでした。


映画で描ききれなかったことに対する不満

なぜ、彼女はあそこまでして、麻薬社会との戦いに挑んだのか・・・それが映画を見おわって、横になった中で思い浮かんでは、なんとも理解できないものでした。この映画をそのまま見た場合、彼女の生き様に感動した、そう感動するのが一般的でしょうが、本来ならば、もっと彼女がああした己の行動の選択をした「根本的な理由」が描かれるべきでした。そして、そこからは彼女の選択に対する共感と反対の感動が入り乱れるように促されるべきでした。しかしながら、本作では彼女のああした己の行動に対する、その信念の「根源」が何であったか、それが十分に描かれたとは言えません。映画の一節で、彼女が幼少時に「男に負けたくない」という気性から、あるスポーツに取り組んでいた部分を描いてありましたが、それが理由だったのでしょうか・・・どうも釈然としません。ヴェロニカ・ゲリン自身が当初新聞社で働く以前、全く違う仕事をしていた中から、ジャーナリズムの世界に傾倒した理由を描けなかった。結局、こうした部分でも、ヴェロニカ・ゲリンの表面的な部分しか追いきれなかった。そんな印象がどうしても残るのです。


こうした感想を持ったわけで、私は結局図書館でヴェロニカ・ゲリンに関する本を借りてこようと思っています。本作は「入門編」と思えますので、どうも消化不良ですから・・・それゆえに、今回の作品は、星は☆☆☆(五つ満点)です。


うーん、もったいない!