ただ感謝する                                               2005.8.9

 土曜日の聖書研究会以来、お祈りについて考えていた。私は都合のいい時に、イエス様や神様を利用してお祈りをしているのではないか。「イエス様、助けてください」「神様、お守りください」といった調子だ。
 では、どのようにお祈りすればいいだろう。私が「お守りください」と言おうが言うまいが、神様は私をお守りしてくださっているし、導いてくださいと言おうが言うまいが、神様は私を導いてくださっている。自分の愚かな姿を神様の力、聖書の働きにより、私が見えるようにしてほしいというのも、神様にお願いするよりは、神様が見せてくださろうとしていることに、私が気づいていないことに問題があり、気づけるように一歩一歩努力している姿を神様が見ていてくださることを覚えておくことを祈るのがいいのではないか。神はすでに、私に必要な全てを与えてくださっているのだから、私が気づいていく過程が大事ではないか。このように考えると、常に私に愛を注がれている神への感謝の言葉しか出ない。
  先日、神道の本を読んでいたところ、神道では、とにかく理由などつけずに感謝するのだそうだ。ただ感謝する。キリスト教の福音に感謝するのとよく似ている。
 神学校のビデオを見ていたとき、K先生が「神様のしもべじゃなくて、神様をしもべにしてないですか」という言葉が印象に残った。その後、土曜日にAさんが、ヨハネ福音書の中の、イエス様に母マリアが、「葡萄酒がなくなりました」というところから、いかに私たちが、イエス様を自分の都合で使っているかということを反省された。
 私は、Hさんの件で悩んでいたとき、イエス様に「そばにいてください」と頼んだ。そしてとても平安な気持ちになったが、これもおかしな話で、イエス様がいつも心に住んでくださっていることに気づかない生活をしているということだ。
 感謝してただ神様を喜ばせるために生きたい。
 レジをしているとき、お客様への対応がこれでいいかどうかをイエス様に相談していた。イエス様が喜んでくださる対応とはどんなものだろう。一瞬そういう思考を持てることで、ていねいな対応ができる気がした。
 目の前の人を喜ばせることではなく、その先にイエス様をみている。たぶん、目の前の人のことだけ考えると、自分の好みとかで、対応が揺れるのではないか。マザーテレサが、貧しい人の中にイエス様を見ていたように、自分の快不快を乗り越え、自分の利害を乗り越えるためにも、もう一段高い視点が必要ではないか。
 ただ感謝するという神道の考えが少し理解できたような気がする。