今年9月、ポーランド・ワルシャワで「第一回 ショパン国際ピリオド楽器コンクール」が行われた。
ピリオド楽器とは、古楽器を意味する。
19世紀前半、当時のピアノは “フォルテピアノ” と呼ばれ、一台一台が全く異なる個性豊かなピアノだった。
中でも、コンクールでは以下の5台のフォルテピアノが選ばれた。
ブッフホルツ(1825年製)
グラーフ(1829年製)
プレイエル(1842年製)
ブロードウッド(1847年製)
エラール(1849年製)
いずれもショパンが当時使っていたもので、当然これらの楽器から生まれる音色で作曲されていた。
コンクールの目的は、「ショパンの着想の元となったピアノを弾く事で、彼の音楽の確信に迫りたい」というもの。
参加者の中には、ショパンコンクール出場者もいたが、テクニックがあっても古楽器を扱うのは難しいようだ。
音の響きやタッチは、今のモダンピアノとは随分異なる。
今の完成されたピアノでは、技術で “弾けてしまう” ことが、何かを見失ってしまうのかもしれない。
一つ一つのピアノに特徴があるからこそ、テクニックだけでは太刀打ちできない何かがあるのだろう。(マニュアルが通じない。)
今や、ピアノの量産とともに、ピアニストの量産も進んでいるように思う・・。
古楽器のように、一人一人全く異なる個性豊かなピアニストではダメなのか。
今のモダンピアノと同じように、だれもが “同じ質” でないといけないのか。
審査員の一人、トビアス・コッホの言葉が私は最も印象に残った。
「我々にできるのは、我々の解釈を表現することだけだが、それこそが最も重要なこと。
求めるのは決して完璧さではなく演奏者の“人となり”。 現代を生きるその人が、いま何を伝えたいのか。」
これはピアノに限った事ではないと思うが。
ピアノ演奏は、高度なテクニックを要求される事が多いが、それは音楽を表現するための手段にすぎない。
作曲経緯もだが、“その作品をどう感じるか” ということが最も大切だと私は思っている。
一位に選ばれた、Tomasz Ritter(トマシュ・リッテル)さんの演奏は、改めてショパンの協奏曲第2番の深さを教えてくれた。
独特な演奏解釈の中に、楽曲が求めているだろうニュアンスが、彼の巧みなテクニックで絶妙に自然に表現されている。
フォルテピアノだからこそ、成し得た表現なのか。
モダンピアノでは、技巧的にダイナミックで早く弾きたくなるように、いざなわれてしまうのかもしれない。
演奏は、どれ一つとして同じものは存在せず、正解なんて存在しない。
ショパンの本当の真意を知るのは、雲を掴むようなこと。誰にも分からない。
無限の解答を探し求めていくしかない。