じぶんが、不運・不幸な状態というものに、ながい期間にわたって陥っている。ヒドイばあいでは、数年間どころか、数十年間にわたって、ずっと不運・不幸な状態というものが、つづいてしまっている。
とてもざんねんなことではあるのだが、こういうタイプのニンゲンは、世のなか・しゃかいには、たくさんいるのかもしれない。
では、そのりゆう・げんいんは、一体なんなのであろうか。おそらく、ひとつ・ふたつではないであろう。イロイロなことが、ふくざつ・複合的にカラミあって、そういうワルイ状態を、つくっているかとおもわれる。
だがしかし、そのなかのひとつを、あえて挙げるとすれば、それは「悪縁」であるかとおもわれる。
つまり、「じぶんにたいして、いつもマイナスのワルイことを、たくさんもちこんでくる」というタイプのニンゲンが、じぶんのまわりに、なんにんもそんざいしている。そういうことが、りゆう・げんいんとなって、不運・不幸な状態というものを、つくりあげているのではないだろうか。
そして、もしもこのことに気がついたのであれば、つぎのだんかいとして、「では、一体どうすれば、その悪縁をすべて、そしてカンゼンにつぶし、けずり、消去することができるのか」ということが、アタマにうかんできそうである。
あたりまえのことではあるのだが、縁というものは実体がない。そのために、スガタ・カタチがそんざいしていない。さわることも、みることもできない。色もない。
このことから、「縁なんてモノは、そんざいしていない」とかんがえるタイプのニンゲンも、たくさんいるかとおもわれる。
だがしかし、やはり「縁」という概念は、たいせつであり重要である。じぶんが一体、どういうタイプのニンゲンと会ったり、かかわるのかによって、じぶんのじんせい・ミライは、おおきく変わってしまうのだから。
あるいは、ニンゲン以外のものごとも、縁にふくめることができそうである。じぶんが経験したジケン・できごと・現象・事象によって、その後のじんせい・ミライが、おおきく変わってしまうケースもあるはずである。
一冊の本を読んだために、じぶんのかちかん・じんせい観というものが、ガラリとおおきく変わってしまった。こういう経験をしたニンゲンは、たしかにそんざいしている。
ということであれば、やはり、縁という概念はたいせつであり、重要かとおもわれる。そして、縁には「良い縁」と、「ワルイ縁」のふたつがそんざいしている。
あたりまえのことではあるのだが、良い縁である「良縁」は、たくさん所持し、持っていたいのであるが、ワルイ縁である「悪縁」というものは、ひとつであっても不要であり、いらないはずである。
とはいっても、縁には実体というものがなく、スガタ・カタチ・色もない。そのために、「一体どうすれば、良縁をたくさんつかまえて、悪縁をけずり、つぶし、消去することができるのか」ということが、カンタンにはわからないのだ。
実体があり、スガタ・カタチ・色があるモノならば、ソレをどこかでみつけて、買ったりすることができる。いらなくなれば、すてることもできる。だがしかし、「縁を買う」ということはできない。そしてまた、すてることもできない。
ぐたいてきであり、即効性を持っている「良縁を手にいれて、悪縁をすてる」という方法・ノウハウ・やりかたは、どうやらそんざいしていない。
ということであれば、時間をかけて、じぶん自身の視点・発想・かんがえかた・かちかん・性格・スタンス、コトバ・たいど・ふるまい、ヒトへの接しかた、おこなうことに注意し、もんだいのないカタチになおしていく。
また、キケン・もんだい・トラブル・モメごとを、たくさんもたらすタイプのニンゲンとは、すこしずつキョリを取って、会わず、かかわらないようにしていく。
いわば、こういう地道なココロがけや注意をしていくしか、やりようがないのかもしれない。