世のなか・しゃかい・せけんで、むかしからいわれる「因果応報・自業自得」というコトバがただしいのであれば、「じぶんの発言・おこない・たいど・ふるまい・言動などの成果・結果・効果などは、やがてじぶんにたいして跳ねかえってくるかとおもわれる。

 

 だがしかし、ソレが跳ねかえってくるのは、すぐではないのかもしれない。ヘタをすれば数十年後になりそうである。

 おそらく20年ではみじかそうである。つまり、20年以上はかかるかとおもわれる。

 

 そしてコレは、あくまでも、個人的な経験則・体験談になるのだが、だいたい24年以上先になりそうである。

 

 たとえば、「むかし読んだときに、おおきなショック・影響をうけた本がある。そのために、じぶんの性格・かちかん・かんがえかたが、おおきく変わってしまった」というケースがあるとする。

 

 たしかに、じぶん自身では、そのとき・その場で、おおきなショック・影響をうけており、じぶんのないめんが、ガラリと変わってしまったとする。そのように自覚しているとする。

 

 だがしかし、ソレによって、「じぶんのおかれた状況・かんきょうが、すぐにガラリとおおきく変わる」ということは、あまりないはずである。

 

 なぜならば、そもそもの前提として、「ニンゲンが、じぶんのまわりの状況・かんきょうを、じぶんの意思・チカラでもって、おおきく変える」ということは、カナリむずかしいのだから。

 

 ソレよりも、むしろ、「じぶんのほうが、まわりの状況・かんきょうから、おおきな影響をうけてしまい、じぶんのほうが変わってしまった」というケースのほうが、あっとうてきにおおいかとおもわれる。

 

 とはいっても、やはり、24年くらい経ってみると、なんだかんだいっても、「じぶんのないめんの性格・かんがえかた・かちかんが、ガラリとおおきく変わってしまった」ということによって、「気がついてみたら、じぶんのおかれた状況・かんきょうが、その当時とくらべてみると、カナリ変わっていた」ということは、十分にありえそうである。

 

 ぐたいてきにいえば、「じぶんが付き合うニンゲンのタイプが変わった」だとか、「シゴトが変わった」などが、ありえるのではないだろうか。

 

 コレはおそらく、じぶんのないめんの性格・かんがえかた・かちかんが、ガラリとおおきく変わったことによって、日々のシゴト・せいかつで、ちいさなこともふくめて、じぶんのはんだん、けつだん・意思けってい、選択などが、その本を読んだというキッカケによって、変わってしまったからであろう。

 

 この日々のちいさなはんだん、けつだん・意思けってい、選択の積みかさねが、今げんざいの時点での、じぶんのおかれた状況・かんきょうを、つくりあげているかとおもわれる。

 

 このことが、「24年まえとくらべてみると、じぶんのおかれた状況・かんきょうが、おおきく変わってしまった」という結果・成果・状態を、もたらしているかとおもわれる。

 

 これらのことから、どうやら、「因果応報・自業自得」というコトバは、あたっているのかもしれない。そのようにおもえてしまう。

 

 じぶんのかこの発言・おこない・ふるまい・言動などが、今げんざいの時点での、じぶんのおかれた状況・かんきょうを、つくりあげている。つまり、「じぶんが蒔いたタネが、芽吹いている」ともいえそうである。

 

 じぶんが蒔いたタネが、今になって芽吹いている。ということであれば、今げんざいの時点で、じぶんがツラク・きびしく・くるしい状況・状態であるのならば、ソレはもしかしたら、じぶんがむかし蒔いたタネが、ワルイないようのモノだったのかもしれない。

 

 良いないようのタネを蒔けば、良いないようの成果・結果・状態をもたらすかとおもわれる。

 コレとはぎゃくに、ワルイないようのタネを蒔けば、やはり、ワルイないようの成果・結果・状態をまねきそうである。

 

 まさに、「蒔いたタネはかならず生えて、蒔かぬタネはゼッタイに生えぬ」というコトバのとおりかもしれない。

 

 どうやらニンゲンは、じぶん自身の発言・おこない・ふるまい・言動などによって、じぶんのミライ・じんせい・うんめいが、おおきく左右されて、影響をうけてしまうようである。

 

 つまり、「じぶんのおかれた状況・かんきょうは、じぶん自身にりゆう・げんいんがあり、じぶんがソレをつくりあげて、呼びよせてしまう」と、このようにいえるのかもしれない。