二ホンにおいても、ドンドンと、貧富の差・格差がおおきくなってきている。コレは、ほとんどのニンゲンが、実感としてもっているのではないだろうか。

 なにせ、「おカネがなくて、せいかつにヨユウがない」とかんじているニンゲンが、ふえているのだから。

 じぶん自身はもちろんのこと、じぶんのまわりの知人・友人をみるだけで、こういうことは、実感としてかんじることができそうである。

 

 そして、あたりまえのことではあるのだが、貧富の差・格差というものが、あまりにもおおきくなりすぎると、「うまれた家によって、コドモのじんせい・ミライが、ほとんんどきまってしまう」ということになりかねない。

 

 ろこつにいえば、「おカネのある家にうまれたコドモは、学費のたかい、よいかんきょうのガッコウにいくことができる。また、高等教育機関・だいがくに進学することもできる」ということになる。

 ソレにたいして、「まずしい家にうまれたコドモは、レベルのたかい、どれだけ天才的なずのう・さいのう・のうりょくをもっていたとしても、おカネがないために、荒れたガッコウにいくことになったり、あるいは、せんもん的な教育や、高等教育をうけることができない」ということになりそうである。

 

 そして、今の時代は、ちしきしゃかいなのである。つまり、高度でせんもん的なちしき・ぎのうをつかうシゴトでないと、よい給与をもらうことはできない。たんじゅんな作業、にくたいろうどう、サービス業などの給与は、あまりたかくないのである。

 となると、せんもん的なちしき・ぎのうをまなび、身につけておぼえなければ、たかい給与や、じょうけんのよいシゴトに就くことはできなくなる。

 

 このときに、そもそもの前提として、「高度でせんもん的なちしき・ぎのうをつかうシゴトには、せんもんの資格がひつようとなる」というケースが、あっとうてきにおおい。

 たとえば、医者や薬剤師などの医療かんけい者、べんご士、ぜいり士、会計士、せんもん的なちしきをつかうエンジニア・ぎじゅつ者などは、どくがくで資格をとることは、ほとんど不可能に近いであろう。

 つまり、せんもん的なちしき・ぎのうをまなぶ、高等教育機関にはいらなければ、そもそもの前提として、その資格をとることができないのである。

 コレはろこつにいってしまえば、「せんもん的なちしき・ぎのうをまなぶ、高等教育機関にはいらなければ、その資格をとるための資格・じょうけんを、みたすことができない」ということになるであろう。

 

 こうなると、けっきょくのところ、「どれだけ天才的で、レベルのたかい、すぐれたずのう・のうりょく・さいのうをもっていても、おカネがなければ、ソレを生かすための高等教育機関に、はいることができない」ということになる。

 ということであれば、しゃかいにたいして出ていって、シゴトをしてはたらくときに、じょうけんのよい、給与のたかいシゴトに就くことができなくなる。

 つまり、もうすでに、さいしょのスタートのだんかいで、おカネをもっているニンゲンとのあいだに、おおきすぎる格差がでてきしまうといえる。

 

 こういう状態になると、俗にいう「格差の再生産」という、悪しき状態になりそうである。悪じゅんかんである。

 もちろん、なにぎとにも「例外的なケース」というものは、たしかにそんざいしている。

 高等教育機関にいっておらず、せんもん的な資格をもっていないニンゲンであっても、おおきな成功をおさめて、おカネもちになるというケースは、たしかにあるであろう。

 たとえば、文化・げいじゅつ的なジャンルや、げいのう界で成功したり、あるいは、じぶんで商売をしたり、起業してかいしゃをつくり、成功するニンゲンもいるかとおもわれる。

 

 だがしかし、これらはあくまでも、ぜんたいからみれば、かなりかずがすくないはずである。つまり、例外的であり、希少なケースなのである。

 いっぱん的なフツウのニンゲンが、こういうケースというものを、じぶんの参考にすることはできないであろう。

 

 とてもざんねんなことであり、また、不ユカイなことかもしれないが、コレが今のしゃかい・よのなかの、げんじつのスガタ・カタチ・状態のようである。

 おカネもちは、さらにおカネもちになり、びんぼう人は、さらにびんぼうになる。ぜんいんがコレにたいして該当するとはおもえないが、ぜんたい的にみれば、ほとんどのニンゲン・ケースにおいて、こういう指摘は、どうやら、ホントウのことかもしれない。