司馬遼太郎が、『台湾紀行』のなかで、「戦前の二ホンは、多民族国家だった」との指摘をしていたが、いわれてみれば、たしかにそのとおりである。
戦前までの二ホンは、朝鮮半島、台湾、南方の島々、南樺太、中国たいりくに領土をもっていた。ということであれば、ちがう民族である現地の住人もまた、二ホン人として、あつかわれていたことになる。
つまり、「ひとつの国家のなかに、いくつものちがう民族がいる」というカタチになる。ということであれば、やはり、戦前までの二ホンは、今とはちがって、「多民族国家」であったのであろう。
戦後の二ホンは、「単一民族国家」といわれているのだが、たしかに戦後は、あっとうてきに大たすうのニンゲンが、ヤマト民族である。だがしかし、戦前までは、そうではなかった。
そして、戦前までの二ホンには、ちがう文化、言葉、宗教、伝統をもった、ほかの民族がいたのであるが、では、「そういう他の民族を、うまく統治することができていたのか」といわれれば、そうとはいえないであろう。
そもそもの前提として、近代化した明治以降、海外に領土をもって、多民族国家になったのであるが、そのまえのエド時代においては、200年以上も鎖国をしていたのである。
そのために、ほとんどの二ホン人は、ガイコク人と会うことすらなかった。
なにせ、ガイコク人が、二ホン国内にはいれないだけではなくて、二ホン人が、ガイコクにいくこともできなかったのである。コレでは、ガイコク人と会えるわけがない。つまり、接することがない。
そして、そういう「ガイコク人と、ほとんど会ったことがなく、接した経験がない」という二ホン人が、近代化したとはいえ、いきなり他の民族を、うまく統治することができるわけない。
戦後の二ホンは、敗戦によって海外の領土をうしなった。そのために、自動的にヤマト民族が、あっとうてきに大たすうとなった。
つまり、ほかの民族と会ったり、接するということが、またすくなくなったのである。
つまり二ホン人は、今の時代にいたるまで、「ほかの民族と、ほとんど会わず、接することがない」という期間が、あっとうてきにながかった。
コレは、ちがう視点にたってかんがえてみれば、「二ホンという国は、多民族国家であった期間はみじかかった。そのために、ほかの民族とうまく付きあい、統治するためのノウハウ・ぎじゅつ・方法などを、まなぶ機会がほとんどなかった」といえるであろう。
だがしかし、「そもそも論」になるのだが、ほかの民族とうまく付きあい、統治するためのノウハウ・ぎじゅつ・方法を、どれほどまなんで、身につけたとしても、そもそもの前提として、ほかの民族を、うまく統治するということは、かなりむずかしいのかもしれない。
ヨーロッパ各国は、かつては海外に、たくさんの植民地をもっていた。つまり、たくさんの他民族をしはいし、統治していたのである。
だがしかし、第二次世界大戦後に、それらの植民地はどくりつした。そのために、その海外の領土をうしなっている。
コレはつまり、「ほかの民族を、カンゼンにしはいして、統治しつづけることはできなかった」といえそうである。
また、多民族国家はぶんれつしやすいようである。イギリスという国は、海外の植民地がどくりつしただけでなく、すぐトナリにそんざいし、何百年間もしはいした、アイルランドがどくりつしている。
最近では、これまた、何百年間もイギリスが統治しているスコットランドにおいて、どくりつ・分離うんどうの機運がたかまっている。
ほかにも、共産党のどくさい政権が崩壊したら、ユーゴスラビアとソ連は、民族ごとに、ふくすうの国にぶんれつしている。
また、イギリスからどくりつしたあと、インドは、パキスタン、バングラデシュがぶんれつして、ちがう国となっている。
今げんざいの時点でも、多民族国家においては、どくりつ・分離うんどうをかかえているケースが、おおいようである。たとえば、中国・トルコなどがそうであろう。
このようにかんがえてみると、たとえ二ホン人が、ほかの民族を統治するためのノウハウ・ぎじゅつ・方法をまなび、身につけていたとしても、そもそもの前提として、ほかの民族を統治するということは、かなりむずかしかったかとおもわれる。
そのために、たとえ、一時的にはうまくいったとしても、ながく統治しつづけるということは、そもそもムリだったのかもしれない。
つまり、たとえ敗戦のあとも、海外の領土がのこっていたとしても、やはり、どこかのだんかいで、どくりつ・分離うんどうが起こり、ソレが活性化・かっぱつ化し、海外の領土を、手ばなすことになったかとおもわれる。ヨーロッパ諸国のように。