二ホンとアメリカ合衆国を比較したときに、「アメリカは、キホン的にはじゆうであり、一部が例外的に規制・禁止されている。ソレにたいして、二ホンはぎゃくであり、キホン的には規制・禁止されているのだが、一部は例外的に許可されて、自由にすることができる」というものがある。
たしかにコレは、そのとおりかもしれない。アメリカ合衆国は、セカイ一の競争しゃかい・じつりょく主義の国である。コレは、じゆうがおおいからこそ、なりたつ状態のはずである。
なにをするにしても規制され、禁止されていることがおおいのであれば、そこには競争はうまれにくい。なにせ、じゆうだからこそ、イロイロなニンゲン・そしき・勢力がきそいあい、競争がうまれるのだから。
そして、この二ホンという国においては、たしかに、あたらしく、なにかをおこなおうとしたり、今までとちがうことをおこなおうとしたり、今あるものごとを変えようとすると、イロイロなところで規制にひっかかり、禁止されていることにあてはまり、許可がおりないことがおおい。つまり、じゆうにソレをやれない。
こういう状態は、これから先もつづくかとおもわれる。まがりなりにも、1000年以上のれきしがあり、かなりむかしから、「自由よりも、規制・禁止されることがおおい」という状態が、ずっとつづいてきた以上、今さらすぐに、こういう文化・伝統というものを、変えることができるとはおもえない。
つまり、この二ホンという国を、「アメリカ合衆国並のレベルで、じゆうのある体制・しゃかい、けいざい体制に変える」ということは、かなりムリがあるかとおもわれる。
そもそも、国のなりたちがちがうのだし、れきし的な体験や、伝統・文化・宗教・言語などが、まったくちがう。
にもかかわらず、アメリカ合衆国のように、おおくの「じゆう」がある国に変えようとするのは、げんじつ的にかんがえてみて、カンタンにできるとはおもえない。
コレは、良し悪し、善悪、スキ・キライのもんだいではなくて、二ホンとは、そういう国であり、この二ホンにおいて、シゴト・せいかつをして、かつどうをして、いきていくためには、このことを、アタマにいれておくべきかとおもわれる。
そのほうが、イロイロなことにおいて、とまどいがすくなそうである。
二ホンにおいて、シゴトにしろ、私生活にしろ、なにかをおこなおうとするときには、「まずキホン的には、そのことについて、なにかの規制があり、禁止される」と、かんがえるべきである。
そして、「規制・禁止されているのだが、一部は例外的に、許可をとればみとめられて、おこなうことができる」と、かんがえるのである。
大抵のものごとは、コレにあてはまるかとおもわれる。
キホン的には規制・禁止されているのだが、一部は例外的に、許可をとればみとめられ、おこなうことができる。つまり、じゆうにすることができる。
コレは、いいかたを変えれば、「限界・上限・限度のあるじゆう」といえる。つまり、「ここまではいいのだが、これ以上やるのはダメだ」ということである。
そして、「キホン的には規制・禁止されており、一部は例外的に許可され、自由がある」というカタチである以上、その「じゆうにやれる度合い」というものは、けっしておおきくないし、おおくもない。
つまり、じゆうにやれる度合いは、すくないというケースがおおい。
この二ホンという国は、じゆう主義・みんしゅ主義国家であり、たしかに、じゆうがそんざいしている。
すぐトナリのロシア・中国・北朝鮮など、どくさい者がいる専制体制の国においては、二ホンよりも、はるかに規制・禁止されていることがおおい。
そもそも、「言論のじゆう」だとか、「表現のじゆう」などが、そんざいしていないかとおもわれる。そのために、じゆうなかつどう自体が、かなりむずかしいといえる。
つまり、二ホンのように、「みとめられて許可されれば、一部はじゆうにおこなえる」ということすら、できないのかもしれない。「その一部ですら許可されず、みとめられず、じゆうにおこなうことができない」というカタチになりそうである。
コレは、いいかたを変えれば、「そのものごと自体を、ぜんめん的に規制・禁止する。一部といえども許可することはできず、みとめることもできず、おこなってはいけない」ということかとおもわれる。
すぐトナリのロシア・中国・北朝鮮など、どくさい者がいる専制体制の国よりは、たしかに二ホンには、じゆうがそんざいしている。
だがしかし、そのじゆうには、どうやら限界・上限・限界というものがあり、しかも、その「じゆうの度合い」というものは、けっしておおきくはなく、おおくもないのかもしれない。すくなくとも、アメリカ合衆国とくらべてみれば。