『鬼滅の刃』に父は登場しない。

主人公竈門炭治郎の父は既に病気で亡くなっている。回想シーンはあるが、物語の始めからいない。

義勇には回想シーンすらないし、もちろん善逸や伊之助にもいない。

 

煉獄に至っては、いるけれども酒浸りであるし、宇髄は忌み嫌う相手である。

 

父とは、超えるべき対象である。

特に男子にとって。

 

『カラマーゾフの兄弟』も『海辺のカフカ』も父殺しの話である。

 

『オイディプス王』の物語の支柱は父殺しであるように、その意味するところは、男性は父を殺したい欲望がある、ということだ。これは実際に殺すのではなく、精神的肉体的に優位に立つ、という意味においてである。

父が生きていれば、いずれ父を超えることはたやすい。

尊敬していた父もまた普通の人間だったとわかる瞬間、身長が自分より低くなった瞬間、老いとともに肉体も弱体化していくのを眺めているだけでも自分が上に立つ瞬間がやってくる。

 

偉大な父などいらないのだ。

 

しかし父の喪失・不在においては、息子が越えるべき凌駕すべき相手がいない。

よって青年は父に変わる父を探す必要がある。

 

漱石『こころ』の先生の父も亡くなっている。

人生にとって壁となり越えるべき相手の不在。

それがないと自分の成長も確認できない、前に進むこともできない。

そこで父に変わる人間を先生は必要とした。

先生にとって、尊敬している人物であり、自分が敵わないと思うと同時に跪かせたい相手は誰か。

それが「K」である。

先生にとっての父はKであるから、Kの好きなお嬢さんを手に入れることで「父殺し」を果たしたのだ。

 

では、炭治郎にとっての父とは誰か。

慈愛に満ちた「お館様」では決してなく、

倒したくても倒せない、たどり着けない、強靭な肉体を持つ「鬼舞辻無惨」である。

 

鬼舞辻無惨を倒すために皆一丸となって戦うのは、父を倒すつまり「父殺し」を果たす必要性があるからだ。

不知川の父も死んでいるし、悲鳴嶼にもいない。無一郎にもいなければ伊黒にもいない。

お館様だって父はいない。

 

鬼舞辻無惨は鬼殺隊の超えるべき「父」だったのである。