さて、今さらなんですけど、GW後半5月5日に靖国神社行ってきました。
マスジの周りにも人がいっぱい集まってました。
いつも思うんだけど、何故こんなに大きい台座なんだろう。
前に来た時は前回の新選組検定当日。試験前だっていうのに、呑気に練兵館跡の碑見たり、ゼロ戦見ながらカレー食べたなぁ。
今回は神社内にある遊就館も拝観してきましたよ。
幕末関連の展示物もあって、かなり面白かったです。
久坂君が武市さんに送った手紙があって、なんでここに???って、急にテンションが上がりましたww
慶喜さんが釡次郎さんに送った軍服もあって、『うぉぉぉ~~~匂いかぎてぇぇ~~~』と、騒いでおりました。
が、第二次世界大戦の展示コーナーは辛かったです・・・
説明板によると・・・
安政元年、伊豆下田港外に停泊中のロシア軍艦ディアナ号は、大地震の津波により座礁した。
乗組員は幕府に請い、スクーナー二隻を造り、これに乗じて帰国した。
後、ロシア政府はディアナ号の備砲52門を幕府に送りその厚誼を謝した。
本砲はその一門である。
と、ものすごいざっくりな解説が書いてあるんだけど・・・
わたし『なんでロシアの船にイギリスの大砲な訳?』
相方『ロシアがイギリスから買って乗っけたんじゃない?』
わたし『・・・(ロシアが買うか?)』
そう思って、ググってみたら、同じように謎に思ってた人もいて、さらに探っていくと、函館日ロ交流史研究会の報告書に辿り着きました。
函館日ロ交流史研究会より 「会報」No.1 1996.8.21 研究会報告
遊就館(靖国神社境内 東京)前に、1挺の古砲が展示されている。
同館の説明(1995年)によれば、1854年開港を求め来日したロシアのプチャーチン提督の乗艦ディアナ号の艦載砲で、幕末の日ロ交渉の記念物とされている。
開国交渉は1854年伊豆下田で行われたが、12月23日畿内東海諸国地震に見舞われ、下田は壊滅状態となりディアナ号も損傷を受けた。
結果的にディアナ号は沈没し、代船が隣村戸田で造船され、プチャーチンは新造船を「戸田号」と名付け、ディアナ搭載砲8挺を搭載し残りの52挺を下田に預けて帰国した。
1856年11月8日開国交渉批准交換が下田で行われたが、ロシア政府は下田・戸田両村民が震災で大被害を受けたにも関わらず献身的にロシアを援助してくれたお礼として、日本に52挺のデイアナ砲を寄贈した。
一方箱館奉行は、北方警備の拠点として五稜郭と弁天岬台場を完成させたが、配備する砲が無くディアナの30斤砲24挺を幕府に要求した。
しかし、日本が寄贈を受けた30斤砲は18挺だったため別性能砲が追加されたらしい。
また榎本艦隊の回天丸は、幾挺かを江戸で搭載し箱館海戦で弁天岬台場付近に沈没した。
戦後、沈没海域から回天丸砲として4挺が引き揚げられ、
1910年函館区から2挺が遊就館に寄贈された。その1挺が現存砲である。
現存砲にはイギリス女王のマークが鋳刻され、ディアナ砲では無い事が分かった。
ディアナ砲には帝政ロシアのマークが鋳刻されていたからだ。
現存砲はイギリス女王の旗艦の艦載砲で、同艦はイギリスから幕府に献上され、箱館戦争の時蟠龍号と名を変え榎本軍に参加し回天丸の近くに沈んだ。
両艦の大砲は海底に散乱し、回天砲を引き揚げた時蟠龍砲が混じったと
推測される。
また、榎本軍は10挺を函館から室蘭に移設したと言われているが、確認出来たすべてのディアナ砲は太平洋戦時中に金属回収で消滅した。
ディアナ号に載っていた大砲は、回天に搭載され箱館戦争へ突入
明治2年5月11日 箱館総攻撃の日
回天は近くにいた蟠竜と共に沈没。
回天に載ってたディアナ号の大砲だと思っていたものが、実は蟠竜のものだったんです。
靖国神社の説明版が間違っているんです!
あーすっきりした。
ちなみに横須賀の三笠公園にある1848年製30ポンドカノン砲
説明板にはディアナ号の備砲と推定されます。
米軍横須賀基地に保存されていたのを、同基地総司令官ハウエル海軍大佐から、寄贈されたものです。
この姉妹と思われる大砲が遊就館(靖国神社)に保存されています。
と書いてあります。
帝政ロシアのマークも付いてないんですけどwww








