水彩の涙なら、
 いつか溶けるだろう。
 彼が彼女と、
 出逢えた刹那とき──

 

 

 

 

 人間には二種類ある。
 大雑把で限定的な分け方をすればの話だが。
 躰の成長と共に分別がついていく者と、いつまでも子供の心のままの者。
 キャンディだって、流石にこの歳になって嬉々として木登りをしたりはしない。
 ごく稀に見事な枝振りの樹を見つけると(昔取った何とやらで)、躰が疼き、ふらふらっと引き寄せられそうになる。
 しかし。
──先ず、あの枝を右手で摑んで、それからあそこの窪みに左足を……。

 

「キャンディ」
 びっくん。
 このように真っ先にテリィに止められる。
「はっ、はい」
 キャンディは伸ばしかけた腕を慌てて引っ込めた。
──どうして分かっちゃうのかしら?
「君はこの歳になっても、夫から《ハニー》でも《スウィートハート》でもなく、《ターザンそばかす》と呼ばれたいのかい?」
 立派な樹幹みきに片手をついて、長い脚を交差させ、テリィはくすくすと笑いだす。
 何気ないポーズが格好良い(舞台の上では、その何倍も映えるのだ)。
 このときめきは百歳までもつに違いない、とキャンディは思う。
「ま……まさか」
──愛する人が止めろと言うのなら、私だってしないわ。
 これ以上の真っ当な理由があるだろうか。
《ターザンそばかす》も今となっては懐かしいニックネームだ(彼限定だが)。悔しいけれど愛着すら芽生えている(彼限定だからだ)。初めて呼ばれた時は、可愛げの欠片もない単語の組み合わせにそりゃあ憤慨したものだ。
《ターザンそばかす》でも何でもいい。今すぐ飛んで来て私を呼んで──。
 十年の間、何度欲したことだろう……。

 

 そもそも──この歳って、いったい幾つからなのだろう?
「でも、女性より男性の方がいつまでも少年の心を持ち続けているっていうじゃない?」
 男と女では違うのだろうか。
「貴方はどうなの? テリィ」
「毎日芝居で年齢詐称している人間に投げる質問じゃないね」
 愚問だとばかりにテリィは答える。
「少年の心なんてとっくの昔に失くしたよ」
 そうばっさり断言されてしまうと、ちょっと寂しい。
「あら、そう? 貴方の妖精パックも素敵だと私は思うけど?」
 キャンディは悪戯っぽい表情で夫を見つめる。
「パックだって?」
 シェイクスピア俳優は、あんぐりと口を開けた。
「だって、私の夫は、天賦の才の持ち主ですもの」
 テリィは吹き出す。
「身内贔屓も程々にしてくれよ」
 が、直ぐに真面目な顔になった。
「言っておくが、俺は特別なんかじゃない」
 君の前では、ただの男だ。
 君だけの、ただひとりの──、
「ええ、解っているわ。最後まで言わなくても」
 キャンディは踵を上げて、夫の首へ腕を回す。
「私、大人になったでしょう?」

 

 希望という感情を失くしたイカロスの、
 翼が溶けて墜落おちるその前に、
 女神は男を受け止める。
 女神の名は──、
「キャンディ……」
 彼は、甘い名前を甘く呼んだ。

 

 枝葉に潜んだ蕾が開く。花弁から蜜が滴る。
──俺だけが融かすことのできる花。
 その後の声は聴こえない。
 互いの鼓膜を行き来するだけ。

 

 虹色のページが風で捲れた。

 

 

 

 

 

星今回のイメージソングはこれ以外にない音符

 

 

 

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