判で押したように、彼は、寸分たがわぬ時間に迎えに来た。
終了時刻の三分前──練習の邪魔にならないぎりぎりのタイミング。
律儀な男だ、とジェローデルは思った。

 

天性の音楽家気質なのか、彼女はみるみる上達した。
それとも、恋人が弦楽器奏者ヴァイオリニストということが彼女を突き動かしているのか。
常日頃より、誰よりも近くから、誰よりも繰り返し、弓の運び、弦の振動をその瞳と耳に記憶させているのだろう。

 

不遜な態度は何時いつしか消えた。しかし、内心は穏やかでないに違いない。
私が──あの男に抱き続けている感情のように……。
『白鳥』は、彼女の腕のなかで羽を震わせ、静謐せいひつな音色を羽搏はばたかせるだろう。
──目的地は恋人の腕のなか。

 

あの方と同じ金の髪が肩から流れ、細い指が優雅な旋律を紡いでいく。
あの方と同じ面差しで……。
鮮烈な彩りが──心を侵食していく。
本番は、明日である。

 

 

 

 

ドアを開けた瞬間、全身が粟立った。
終了時刻の三分前──練習の邪魔にならないぎりぎりのタイミング。
そして、今日が最後のレッスン。
男の眼が変わった、とクラウスは思った。
正確には、彼女を見る眼差しだ。
男が顔を背けるのと同時に、恋人が自分に気づき、
「クラウス」
と屈託のない笑顔をこちらに向けた。

 

平静を装い、真っ直ぐに男を見据え、礼を伝える。
最低限のプライドか。
或いは、根拠のない自信の表れか。
男は一呼吸置いた後、無言で、軽く会釈を返した。
男が一言でも発していたら、例えば彼女の上達ぶりを褒めそやし始めでもしたら、自分は冷静でいられただろうか。

 

恋人の肩を抱き、レッスン室のドアを閉める。
背後に浮遊するちりを断つように。
本番が──明日で良かった。
クラウスは、心底安堵した。

 

 

 

 

当日は、一段と冷え込んだ朝だった。
「指を冷やさないように手袋しろよ」
「分かってる」
暫くすると、もこもこの水色が現れる。
「まるで着ぐるみだな」
「クラウスぅ?」
膨れる着ぐるみ。
着ぐるみが、ぽぅんとぶつかって腕を絡めてきた。

 

「その恰好で演奏するのか? 弾きにくくないか?」
「心配しなくても、ちゃんと着替えます」
「どれに?」
そんな荷物は見当たらなかった。
「何も持ってないじゃねえか」
学生の身分では、ステージ衣装は限られている。音楽学校のように制服もない。
「えっと、伴奏をしてくれる子に借りたの」
「どんなやつだよ?」
「……秘密」

 

その後は何を聞いても、彼女は「秘密」としか答えてくれなかった。
「今年の雪は早いかもね」
グレイの空を見上げて彼女が呟く。まるで話を逸らすように。
クラウスは不貞腐れてそっぽを向いている。
「今年の雪は、早いかもねっ!」
寒空に鼓膜に響くきんきん声。
「うっるせぇな……」
クラウスは漸く返事をした。
「ああそうだな。背中の開いたドレスなんか着たら、風邪引いちまうだろうな」
幸か不幸か、ユリウスの表情が固まったことにクラウスは気づいていなかった。

 

 

 

 

「ユリウスは、三番目か」
プログラムを眺めながら、オスカルは髪を掻き上げる。
「まあ、どう贔屓目に見ても初心者の部類だからな」
クラウスは、アンドレ越しに彼女のプログラムをちらりと見た。
「あいつは? 観に来てないのか?」
アンドレが周囲を見渡す。
「あいつって?」
「ジェローデルだよ」
「そりゃあ来ているだろう。一ヶ月だけとはいえ、初めての愛弟子のお披露目だからな」
オスカルが面白そうな口調で言った。

 

「愛弟子ってなんだよ」
クラウスが途端に不機嫌な声になる。
「あ、教え子か」
「同年代だぞ」
「なんか刺々しいな、お前」
オスカルはいぶかるような眼つきでクラウスを見た。
「あぁ、もしかしてやきもちか?」
うるせぇよ」
クラウスは緞帳どんちょうが下りた状態の舞台を睨んでいる。
「もう終わったんだよ」
「何だ、それ?」
開演のベルがオスカルの問いを掻き消した。

 

そして──、

三人の「大貧民」勝者は、二番目のオーボエ奏者と入れ替わるように舞台袖から現れたにわかチェロ奏者に度肝を抜かれ、フリーズし、目が点になった。
まるで背部分の布をバッサリと切り落とされたようなベビーブルーのドレス姿に。
スポットライトが白い背中をつややかに映し出す。

 

「お……おい、よくお前が、あんなドレスを許可したな」
アンドレが声を潜めて言った。
「し、知らん……、俺は、知らなかった……」
クラウスの唇がわなわなと震えだす。
「ユリウスのやつ……、だから、今朝から様子が……、あいつめ……」
「よく似合っているじゃないか」
オスカルだけは一人涼しい顔だった。

 

目の前の席でそんな会話が繰り広げられているとは露知らず、というより、それどころではない当の本人は、自分の手に余る不慣れな弦楽器の構えにもたついている。
クラウスは、チェロを片手にドレスの裾捌きに奮闘している恋人の胸もとが今にもはだけるのではないかと気が気ではなかった。
そうして漸く、奏者が伴奏者の目を見て頷いた。
その瞬間から、
観客は、三人は、
クラウスは──、
舞台に棲む蠱惑的こわくてきな金色の髪の精霊エルフに捉われ、心臓を摑まれた。
『白鳥』という名の精霊に。

 

 

 

 

演奏が終わった直後、クラウスは舞台袖に駆け込んだ。
「クラウスっ」
真っ白な背中を露わにして、ほっそりとした腕が躰に絡みついてくる。
「どうだった?」
「そっ、そんなことより、お前、その服……っ」
「クラウスのことを想って弾いたんだよ」
「は?」
二本の腕と目いっぱい広げた手のひらで、クラウスは華奢な背を覆い隠す。
「今日だけじゃないよ。練習中から、ずぅっとだよ」
「練習中から?」

 

「うん」
ユリウスは薔薇色に上気した顔を上げ、広い背中を左手で抱いた。まるでチェロを抱えるように。
「こうやってね、貴方に触れるように、貴方を愛するように、いつも指を震わせていたの」
「俺、を?」
──いつも……?
思いもよらぬ刺激的な言葉に、彼は一瞬たじろいだ。
「お前、言っている意味が解って……」

 

「……伝わった?」
甘い声が耳もとで囁いた。
「貴方の腕のなかに、白鳥は降りてきた?」
「ユリウス……」
「ねぇ、降りてきた……?」
「あぁ、しっかりと捕まえたぜ」
「良かった」
ユリウスは幸せそうな笑みを湛える。
「ね、このまま控え室まで連れて行って。着替えてドレスを返さなくちゃ」
「ああ、着替えたら直ぐに帰ろう」
クラウスは素早くジャケットを脱ぎ、ユリウスの肩に掛けた。

 

 

 

 

「なんだ、二人とも帰ったのか」
控え室のドアを開けて、オスカルが言った。
「別に構わないだろ。罰ゲームは終わったんだ」
背後から、アンドレも覗き込む。中はもぬけの殻だった。
「王子が姫を攫っていったのさ」
よくそんな歯の浮くような台詞を吐けるな、というような冷ややかな視線が漆黒の瞳に突き刺さる。

 

「あーあ、つまらん。打ち上げをやろうと思ったのに」
「打ち上げって、何を?」
「大貧民」
「オスカル……、あのな」
アンドレは速足で歩く恋人の後を追いながら、1ミリの透き間もなく躰を寄せ合い家路に向かっているであろう、もう一組のカップルを思い浮かべる。
この差は何だ?
外に出ると、朝よりも空気が冷たかった。
今の自分の体温のようだ。
──卑屈だ。

 

「あっ、ジェローデルだ」
「えっ!?」
見覚えのあるロングの髪が寒空に波打っている。
「おーい、ジェロ……」
「やめろっ、オスカル!」
アンドレは恋人の腕を強く引いた。
「何をする!? 痛いじゃないか!」
「お前は、俺だけ見ていればいいんだよっ!」
オスカルは、目を見開いた。
──し、しまった、つい……。
アンドレは、オスカルの反撃を覚悟した。
ところが、彼女は摑まれた腕を振り解くこともせず、黙り込んだままだった。

 

「あの……、オスカル?」
「そうだな……、お前の言う通りだ」
ぎこちない笑顔を浮かべ、潤んだ瞳がこちらを見つめる。
アンドレは、まるで自分が苛めたみたいな後ろめたい気分になり、思わず、その脆弱な躰を引き寄せた。
彼女はやはり抵抗せずに、身を預けたままでいた。
「俺たちも帰ろうか」
しっとりとした金の髪をアンドレは優しくさする。
「……うん」
突然人が変わったように、彼女が素直になったのは何故だろう……。魔法の粉でも振りかけられのだろうか。
アンドレは、グレイの空を仰ぎ見る。
空中には、白い結晶が舞っていた。

 

 

 

 

一方こちらは、1ミリの透き間もなく躰を寄せ合い家路に向かっているカップルである。
「雪だよ、クラウス」
今年初めての天からの贈りものに、ユリウスが両手をかざした。
「ね、ボクの言った通りになったでしょう?」
「あぁ、そうだな」
クラウスは、両手を上げたままの水色のもこもこを抱き寄せる。
「寒くないか?」
「ふふ……、あったかい……」
ユリウスは、その両腕を恋人の躰に巻きつけた。
「歩きにくい?」
「お前の方が歩きにくいだろ」
「ねぇ、おんぶして」
「はぁ? お前いくつだよ?」
「もっと近くで雪を感じたいの」

 

「あのなぁ、15の時とは違うんだぞ」
「何処が? 体重は変わってないもん」
「ばーか。バランスが変わってるんだよ」
「バランス?」
ユリウスが小首を傾げる。
「バランスって何?」
「例えば、此処だ」
クラウスは、もこもこの双丘の先端を人差し指でつん、と突いた。1ミクロンの誤差も無く。
彼の顔が余りにも平然としていたので、自分が何をされたか気づくのに、ユリウスは二秒ほど時間を要した。
1、2……、

 

「く、クラウスっ!」
分かりやすく沸騰する恋人の反応に、クラウスは我慢できずに吹き出した。 
「いっ、今、何したのっ!?」
「あれ? 早過ぎて見えなかったか? じゃあ、もう一回」
「ばかっ、やめて!!」
胸もとに伸びてくる不埒な手をユリウスは思いっ切り引っ叩いた。
「おぉ、いってぇ……」
ちっとも痛くなさそうである。
「もぉう、信じられない……、こんなところで……」
「毎年、すくすく育っているぞ」
クラウスは真っ赤な顔を覗き込む。
「俺のお陰で」
「クラウスっ!!」

 

舞台から降りた蠱惑的な精霊エルフは、いつの間にか無垢な天使に戻っていた。
初雪には、白い魔法がかけられている──。

 

 

 

 

 

参考動画音符『白鳥』サン・サーンス/チェロ(遠藤真理)

 

 

 

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