「チェロぉっ!?」
ジェロではない。
「そんなでかい声で叫ぶな。いちいち大袈裟なやつだな」
呆れ返った表情で、オスカルはユリウスを一瞥した。
「だって……、ボク、チェロなんて一度も弾いたことないんだけど……」
勿論、聴いたことは何度もある。音楽院に在籍しているのであれば、極めて自然なことである。

 

「それが罰ゲームというものだろう。なあ? アンドレ」
「仕方がないよ、ユリウス。最初に決めたことなんだから」
アンドレが優しい口調で慰める。
「でも、チェロを演奏しなきゃならないなんて、ボクは聞いてないっ」
「当然だ。初めから罰ゲームの内容を知っていたら面白くないだろう」
「じゃあ、何故オスカルは知っているの?」
「そりゃあ、決めたのはわたしだからな」
地球上の全ての権限はわたしにあるのだ、と言わんばかりに不敵な笑みを湛えるオスカル。

 

「そんなの狡いよ! オスカルとクラウスはいいよね。同じ弦楽器だもん。ボクとアンドレにはどう考えても不利じゃない」
そこで、ユリウスはアンドレを恨めしそうに睨んだ。
「どうして止めてくれなかったの? アンドレ」
「いや、それは……」
そんなことが可能なら、地球上の全ての権限はアンドレに与えられることだろう。
「ねえクラウス、さっきからなんで黙っているの? 何とか言ってよ」

 

いつもなら必ず茶々を入れてくる男が静かなことと、いつもなら必ず自分の味方になってくれる恋人が事を起こさないことに、ユリウスは痺れを切らす。
けれども、返ってきた答えは彼女を激しく失望させるものだった。
「そりゃあ何とかしてやりたいのは山々だけどさ、こればっかりは、いくらお前の頼みでも無理だなぁ」
彼女にとって唯一の望みが──残酷にも閉ざされた。
つぶらな碧の瞳が絶望で揺らぎ始める。
「そんな……、どうして?」
「だってさ……」

 

クラウスは無念の表情を浮かべながら、テーブルに散らばっているトランプの山に目をやった。
そこには、「大貧民」の残骸と、一枚の小さな紙片。
それぞれの名前の横に、ランダムに並ぶ10個の〇✕。
ところが、ユリウスだけは、全ての欄が✕だった。つまり、全敗ということである。
「お前がここまで勝負事に弱いとはなぁ」
オスカルとアンドレは顔を背け、肩を震わせて笑っている。
「な、諦めろ、ユリウス」
ユリウスは、がっくりと肩を落とした。

 

 

 

 

「ふっ──どうやら私の出番のようですね」
ジェロである。
「誰だ!? お前」とクラウス。
「ジェローデル!?」とオスカル。
「どうして此処に!?」信じられんという顔のアンドレ。
ドア際で、高貴な笑みを浮かべる優男に、一斉に視線が注がれた。

 

「知り合いか?」とクラウス。
「音楽学校時代の後輩だ」とオスカル。
「だから、なんで此処にいるんだよ?」信じられんという顔のアンドレ(二度目)。
ロングの髪を波打たせながら、ゆっくりと男は近づいてくる。
「出番、て何のことだよ?」とクラウス。
「ジェローデルはチェロ奏者なのだ。しかし、確か父親の仕事を継ぐため、音楽の道は断念したと聞いていたが……」
とオスカル。
「なのに、なんで此処にいるんだよっ!?」信じられんという顔の──以下同文。

 

「さっきからごちゃごちゃうるさいですねぇ」
「さっきからごちゃごちゃ煩いなぁ」
二つの声がシンクロした。
「ユリウス?」
背後からの不機嫌なソプラノに、いち早くクラウスが振り返った。
「実は、父に直談判して、一年間の短期編入を許可してもらったのです」
「要するに、ボクは、この人にチェロを教えてもらえば良いんでしょう?」
普段ほゎんとしている割りに飲み込みが早い。
「こいつに?」
聞き捨てならないのはクラウスだ。
「どっどうしていきなりそうなるんだよ!?」

 

「それで、期限はいつまで?」
みるみる頭に血が上る男を尻目に、ユリウスは、AIロボットのように棒読みで質問する。
「来月の秋季学内演奏会だ」
オスカルが明瞭な声で答えた。
「そんなことまで決めていたのか?」
呆れたようにアンドレが呟く。普段、面倒なことはあまねく自分に押しつける癖に……。
「まったく、こういう時だけは手回しが良いやつだな、お前は」
「分かった。えっと……」
ユリウスがジェローデルの顔を見た。

 

「フローリアン・F・ジェローデルです、マドモアゼル」
「よろしく、ジェローデル」
「マ、マ、マド……」
つい数分前まで、しょんぼりしていた可愛い恋人は何処へいった?
「おいっ、ユリウス!」
「では早速、今からいかがですか? 隣のレッスン室を取ってあります」
「凄い。用意がいいね」
「いえ、たまたま自分用に押さえておいただけですよ」
「じゃあ行こう、善は急げだものね」

「待てよっ、ユリウス!」
クラウスが叫んだ。
「諦めろ、と言ったのは貴方だよ、クラウス」
氷柱つららのような冷たい声が心臓に突き刺さる。
「言っておくけど、ちょっとでも邪魔しに来たら、絶交だからね」
そうして──、男の目の前で、ドアは無情に閉じられた。
クラウスは両の拳を爪が食い込むほど握り締め、ゆっくりと振り返った。

 

 

 

 

「いったいどういうことだよ!? あれもお前が仕組んだのか?」
「何を呆けたことを言っているんだ、お前は。わたしは知らんぞ」
「お前、あいつが編入してきたことを知っていたのか?」
「知らんっ! お前までおかしなことを勘繰るな!!」
呼称の異なる「お前」が飛び交う現場は、今やカオスと化していた。

 

「だって、余りにもタイミングが良過ぎるじゃないか」
「そうだ、あの野郎、絶対ドアの外で待ち構えていたぞ」
「うーむ……、昔から、あいつは神出鬼没なやつだった」
「そういう問題かっ!?」
テノールとバリトンがシンクロする。

 

「ええい、ごちゃごちゃ煩いっ! わたしにどうしろと言うのだ?」
キレるオスカル。
「だいたいお前が罰ゲームにチェロなんか選ぶから悪いんだ」
最早、八つ当たりも甚だしいヴァイオリニスト。
「初めからヴァイオリンにしておけば良かったんだ。それなら俺が教えてやれたのに」
「馬鹿か? お前は。それじゃあ、お前が負けたら罰ゲームにならんだろうが」
自分が負けることを1ミクロンも考えていない発言である。

 

「おい、どんな男なんだ? 人の女に向かってマドモアゼル呼ばわりするなんて、どうせろくなやつじゃあ……」
フランス人の男なら、大抵言う。
「心配するな、クラウス」
少し落ち着きを取り戻したアンドレが遮った。
「言いたくはないが、あいつは……、ジェローデルはオスカルにぞっこんなんだ」

「なんだか知らんが、諦めの悪いやつなのだ」
オスカルが溜息を吐く。
「はあ? それじゃもっと悪いだろうが」
詰め寄るクラウス。
「何故だ?」
オスカルは小首を傾げる(ちょっと可愛い)。

 

「お前と瓜二つのユリウスに、ふらっといっちまったらどうするんだよ?」
オスカルがぷっと吹き出した。
「そう言えば、初めての講義の時、背後から熱い視線を感じたなぁ」
「おい! 誤解を招くような言い方をするな!」
ユリウスがいなくて良かった、とクラウスは安堵する──が。
「あ、熱いだとぉ?」
もっと嫉妬深い男の存在を忘れていた。黒葡萄の髪がめらめらと逆立ち始める。
「いいか? お前とユリウスが似ているのは顔だけで、中身は全然別物だ」
「なら、あいつだって馬鹿じゃない。直ぐに気づくさ。なあ、アンドレ?」
「……まあな」
アンドレが嫌な顔をする。
その別物の中身に万が一惚れたらどうするんだよ、とクラウスは一人悶々としていた。

 

「オスカル、この際あいつに、はっきり言った方が良いんじゃないか?」
アンドレが促す。
「何を?」
「その……、俺たちが婚約していることをだよ」
「は? 言ってないのか? そりゃあ大いに問題だな」
クラウスは呆れ返った。
「どうして、わざわざあいつに、そんなことを伝える必要があるのだ?」
両腕を腰に当て、仁王立ちするオスカル。
地球上の全ての権限は、やはり彼女が持っているようだった。

 

 

 

 

「あぁぁ、指がりそう……」
「無理はしないで。指を痛めてしまっては元も子もありません。増してや貴女はピアニストなのですから」
ジェローデルは優しく手ほどきする。
「同じ楽器でも、力の入れどころがこんなに違うんだね。これを弓で弾きながらやるなんて……」
「それを言うならピアノだって同じですよ。両手だけでなくペダルまで使う」
「それはそうだけど……」
経験が違う、とユリウスは思う。

 

「大丈夫。弾き方は違えど、同じ音楽なのですから。それに、貴女はとても耳が良い。きっと上達も早いでしょう」
ジェローデルは穏やかに微笑んだ。
「ところで、何か弾きたい曲はありますか?」
ユリウスは少し考えて、おずおずと口を開く。
「あの……、ピアノでも大好きな曲なの。『白鳥』、弾けるかなぁ……」
「サン・サーンスですね。私も好きな曲です。演奏会まで一ヶ月、私が責任をもって教えましょう」
「本当? 良かった。罰ゲームなのに、なんだか楽しくなってきちゃった。あ、でも、ボクにばかり掛かりきりで、君の勉強は大丈夫?」
確か、編入は一年間だけだと言っていた。

 

「ご心配には及びません。それに、人に教えることは自分の糧にもなるのですよ」
「へぇ、そうなんだ。凄いなぁ、ジェローデルって本当にオスカルの後輩なの?」
「それは、私が老けて見えるということですか?」
「え? まさか」
あの方とは違う色の瞳が大きく瞬く。やはり別人だ、確かに顔は似ているが……。
錯覚に惑わされ、つい手を差し伸べてしまったけれど。
第一、彼女にだって、恋人がいるではないか。
──それにしても、何故美しい女性ひとに限ってろくでもない……、いや、それを言ったら私の負けだ。
ジェローデルは邪心を振り切るように頭を振った。その時、視界の端に影が過った。苦笑いが漏れる。

 

「今日はこの辺にしておきましょうか。お迎えが来ています」
「えっ?」
ユリウスがドアを見ると、一目で判る長身の影がりガラスに見え隠れしていた。立ち上がってドアを開ける。
びくっ、とたじろぐように恋人が後退った。
「クラウス?」
「お、俺は邪魔してないぞ。この部屋の使用時間を調べてから、そろそろ終わる頃かと思って、たった今、来たところで……」
掻い摘んで言えば、いてもたってもいられなかったようである。

 

「ぴったりですよ」
ジェローデルも立ち上がった。
「次は、二日後の同じ時間でいかがでしょう?」
「はい、よろしくお願いします。ありがとうございました」
ユリウスはぺこりと頭を下げ、くるりと恋人に向き直る。
「帰ろう、クラウス」
「あ、ああ……」
差し出された白い手をクラウスはぎゅっと握った。

 

 

 

 

夕焼け色の石畳が──真ん中部分で一本に繋がった二つの影を映していた。
「さっきは……、悪かった」
「え? 何が?」
「俺、冷たかったよな」
「そうだったっけ?」
ユリウスはくすっと笑った。
「チェロの音色を聴いていたら、いつの間にか忘れちゃった」
「えっ? まさかもう弾けるようになったのか?」
「そんなわけないでしょう。やっと調弦を覚えたところだよ」
「おいおい、たかが罰ゲームなのに、チューニングから習ってるのか? あの野郎、見かけによらず頭が固い……」
「ジェローデルだよ」
「じぇ、ジェ……」
「早合点しないで。ボクが教えてって頼んだの」
「お前が?」
「だって、どうせやるなら、基本から教わりたいもの」
きらきらと眩しい瞳が自分を見つめる。
「もっと弦楽器のこと理解したいの。貴方と合わせる時にも、きっと役に立つと思うんだ。大きさは違うけど、ヴァイオリンに近づいているような気がして嬉しい」

 

なんと健気なことを言ってくれるのだろう、俺の恋人は……。
クラウスは、今直ぐ彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。
「でも、やっぱり弦楽器って難しい。ピアノは鍵盤を叩けば簡単に音が鳴るのに。構えの練習の時にちょっとだけ弾かせてもらったけれど、怖くてなかなか弓が動かせなかった。クラウスも初めての時はそうだった?」
「そりゃあ誰だって最初は……。ピアノだって鳴らせばいいってもんじゃないだろ。初心者とプロじゃ雲泥の差がある」
「それは解っているんだけど……」
「だけどな」
クラウスは、繋いだ手に力を込めた。
「どんな時だって、俺のストラドを最高に響かせることができるのは、お前のピアノだけだ」
「……本当?」
「俺だって、未だに毎回、ご機嫌を窺うように弦に触れるんだぜ」
鳶色の瞳がにやりと笑った。
「誰かの相手をしている時と一緒だな」
ユリウスが眉をひそめる。
「それ、どういうこと?」
「ところが稀に、俺の想像を超えて、俺の腕の中で弦が踊る。それもお前と同じだろ?」
「言っている意味が分かんない」
彼女は紅色の唇を尖らせる。

 

そういうところだよ、と曖昧に濁しても、同じ質問を返されるだけだろう。反対に、精確な答えを浴びせれば、真っ赤になって摑みかかってくること必至である。
それもまた捨て難いけれど……。
「たまには自分で考えな」
クラウスは、金色の頭に片手を触れる。それから、柔らかな肢体ごと自分の胸に引き寄せた。
「んっ……」
道端で、唇の機嫌を宥めるようにそっと塞ぐ。
数秒間。
空には、薄紫の雲の帯。
数秒間。
薄ピンクの吐息がほわりと漏れる。
「……急に、何?」
「機嫌、直ったか?」
「直るわけないでしょ」
紅色の蕾が再びすぼんだ。

 

 

 

 

こちらは、四人(クラウス、ユリウス、アンドレ、オスカル)のパリ音楽院時代の話です。

それなのに、①話/耳そうじ ②話/タピオカドリンク ③話/目玉焼き ④話/サンタのコスプレ と、ちっとも勉強してないっ汗うさぎ

 

 

 

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