何を今更この期に及んで──と俺は耳を疑った。
「本当に本当に、この《馬鹿》孫で良いのかい?」
普段は細い目を丸くして、その瞳を目いっぱい見開いて、祖母は花嫁に詰め寄った。
──だから孫って可愛いもんじゃ……(3回目)。
「あのさ……、おばあちゃん、もう10分後には式を挙げるんだけど……」
グランディエ家の控え室で、俺は周囲を気にして小声で言った。隣の部屋には、まだジャルジェ家の親族一同が待機しているはずである。
「煩いねっ! お前には訊いてないよッ!」
溢れ出る涙を四方八方に飛び散らせ、祖母は冷たく言い放った。──この晴れの日に。

 

「あのね、おばあちゃん」
オスカルは、ドレスが着崩れるのもお構いなしにしゃがみ込み、今日から正真正銘の祖母になる相手と目線を合わせた。
「わたしが、アンドレじゃなければ駄目なんだ」
「お、俺だってそうだ! お前以外の相手なんて、誰一人として考えられない」
と俺も訴える。
「ほらね」
だからお前には訊いてない──と言わんばかりの皺くちゃの表情かおをオスカルが遮った。
「お互いに利害が一致しているだろう。つまり私たちの間には、何の異論も障害もない。おばあちゃんが心配することは、なぁんにも無いんだよ」
ね? と自信に満ちた蒼い瞳が陽光できらきら揺れた。
まるで部外者のように、俺は二人の背後に突っ立っている。
──先月までマリッジブルーで、ぐだぐだと当たり散らしていたのは誰だったっけ……。
それさえも幸せだ、と思うことにする。自分以外の男に矛先を向けられるよりはずっといい。
いくらでも受け止めよう。これからもずっと。一生。

 

窓から空を眺めた。
晴天だ。雲ひとつない。
天候如きで気分が左右されるほど、オスカルがやわではないことは知っている。雷雨だろうが大雪だろうが、常に万全の調整で、ヴァイオリンを弾きこなす精神の持ち主だから。
それでも──晴れて良かった。
彼女の顔を見て、心からそう思う。
大雑把なようで繊細なのだ。今回のことで、よくよく思い知った。

 

「オスカル、せっかくのドレスが皺になるよ」
白い手をそっと握って立ち上がらせる。
「うん」

その時、ドアをノックする音がした。そろそろ時間らしい。
俺は華奢な腰に腕を回す。
「おばあちゃん、後でね」
オスカルは穏やかな微笑みを祖母に返し、躰を俺に預けてきた。
ドアを開けると、渡り廊下全体を眩い光が照らしている。
彼女がこんなに素直なのは、この青天のせいだろうか。
いつも以上に輝いて見えるのは──俺のせいだと今日くらいは自惚れても良いだろうか……。
蒼い瞳が俺を見上げる。

 

「どうした? アンドレ」
「……いや」
「緊張しているのか?」
「──晴れて良かったよね」
足を止め、二人で空を仰いだ。
その時、片側で纏めた金の髪が露わな背中を滑り落ちる。俺は、このドレスを選んだことを少しだけ後悔した。
「そうだな。まさに結婚式日和だ」
「なんか、他人事ひとごとみたいだな」
「そんなことはない」
桃色の頬がぷうと膨れる。
頬紅チークが濃いような気がして指でぼかした。

 

「愛しているよ、オスカル」
柔らかな頬を摘まむ。
「一生、大切にすると誓う」
「それは今じゃなくて、祭壇で言うことじゃないのか?」
また、頬が膨れる。
「どうして? 出し惜しみなんてしたくない。何度でも──言いたいよ」
知らず知らず、顔が近づいていく。けれども唇が触れる寸前で、するりとかわされた。
「駄目だ……、口紅ルージュが取れてしまう」
「少し濃いよ。俺が薄くしてやる」

「馬鹿っ、やめろ!」
手のひらが顎を押し戻す。
「オスカル、痛いよ」
「もう時間だ。行くぞ、アンドレ」
俺はがっしりと手首を摑まれ、半ば引き摺られるように廊下を進んだ。
思わず、笑いが込み上げてきそうになる。いったいどちらが新郎なのか。
かしこまりました、お嬢様マドモアゼル
「もう今日からは、お嬢様マドモアゼルではない」
「言い納め」

 

──ああ、そう言えば。
ふと、思い出した。
やたらと「マドモアゼル」を連呼する男のことを。
選りに選ってこんな日に。
──ああ、そうだ。
不意に、良からぬことを思いつく。選りにも選って、こんな時に。
今日一番のBonne idéeナイスアイディアだ。これで、一枚無駄にせずに済んだ。
「何をにやけている? アンドレ」
「えっ?」
──にやけていたか?
「幸せを嚙み締めているんだよ」
「気持ち悪い」
「酷いなあ」
血管が止まるのではと思うほど、手首を握る力が強まる。
彼女の握力は女性にしては強い方だ。幼い頃、イチョウの樹に登りまくったせいかもしれない。まだ青い銀杏ギンナンの実をむしり取っては投げつけられたものだった。

 

『痛いよっ! オスカル!』
『男ならけてみろっ』
『そんないっぺんに投げられて、避けられるわけないだろっ!』
『お前が鈍いからだ。ぼくなら絶対に避けられる!』
そして高らかに笑っては、また投げつける。今思えば、何という悪ガ……いや、お転婆娘だ。よくもこれまで仲違いもせず、すくすくと育ち、片時も離れることなく、今この瞬間も手を繋ぎ──完全に主導権は彼女だったが。
「オスカル、花嫁はもう少しお淑やかにした方が……」
「煩いっ」

 

 

 

 

何となく聴き覚えがある──とわたしはドアの向こうへ耳を澄ませた。
軽やかなピアノの旋律と、美しいヴァイオリンの響き。
やがて、観音開きのドアが開いた。新婦をリードするように、新郎が歩き始める。
拍手の波──。歓喜の溜息──。
音色おんしょくが大きくなる。ピアノと、そしてヴァイオリンも。
我慢できずに音源の方向へ視線を向ける──。目を剥いた。

 

知っている顔だった。
一ヶ月前、今の自分と同じ立場だった男と女が素知らぬ振りで、涼しい顔で、結婚行進曲ウェディングマーチを奏でている。
ヴァイオリニストと目が合った。にやり──と笑われた。
ピアニストとも目が合った。柔らかな微笑を返された。
横を見れば、目尻を下げた訳知り顔の新郎がこちらを見つめ返してくる。
開いた口が塞がらなかった。

 

まったく男ってやつは……。
──どれだけサプライズ好きなんだ!
どっちの男を睨みつけてやろうか……。
わたしは視線を泳がせる。
「オスカル、頼むから前を見て」
どの口が? どの口が? どの口がー!?
「気持ちは解るけれど、ね?」

 

いつにも増して息の合った演奏だ。寸分の狂いも迷いも無い。
さすが夫婦(になったばかり)──そう思う。
主賓より目立たないように控えめに、けれど恐らく、解る者には解るだろう。会場内に響き渡る研ぎ澄まされた弦の揺らぎが。
この華燭の宴に似つかわしい艶麗な音の粒が。
何という贅沢な祝福のシャワーだろう……。
花びらのように音が降る。
「オスカル……?」
花びらが舞い落ちるように雫が滴る。

 

歓談の合間に、演奏家が二人揃って挨拶に来た。
「よっ、おめでとう」
ヴァイオリニストのこれ以上無い簡潔な祝辞と。
「オスカル、凄く……綺麗だよ」
今にも感極まりそうなピアニストの囁き。
たった一ヶ月早く夫婦の誓いを交わしただけなのに、まるで一対の器の如く同じ色を纏う男と女をぼうっと見つめる。
その先には、窓ガラスに映る絵画のような庭園と咲き誇る薔薇たちと。
何処までも──空は青く澄み渡り。
すべてを祝福するように──。

 

 

その夜──彼女は反撃を開始した。
「さあ、アンドレ」
新妻なのに、水のようにワインを煽る。
「今夜は、ゆっくりと話し合おうじゃないか」
「え? 新婚第一日目の夜なのに?」
後にも先にも──、最初で最後の『初夜』なのに?
「ほう。これ以上相応しいテーマが他にあるとでも?」
「黙っていたのは悪かった。謝るよ」

ふん! 今更遅いっ──と撥ねつける新妻。
「最上級のワイン付きで、朝までだ。ルームサービスでさっさと頼め!」
「そ、それだけは勘弁してくれ、オスカル」
彼女は両耳を塞いで、そっぽを向いた。

 

 

 

 

「なっ! ななな何故なにゆえ、このようなものが私の処へ……?」
緑豊かな閑静な住宅地。枝葉の隙間から降り注ぐ歌うような鳥のさえずり。
フローリアン・ジェローデルは、一葉の紙片を手に愕愕愕然と立ち竦んだ。

 

表には、何度目をこすっても、見紛うことなき彼の住所と名前。誤配ではない。
そして裏側には──満面の笑みを湛える男と女。
眩しいほどに輝きを放つ美の女神アフロディテ
──彼女を見上げる忌々しい
幸せに満ち満ちた薔薇色の微笑み。
──それを見つめる不愉快極まりないにやけた顔

 

指先が、わなわなと震え始める。
彼は肩を落とし、力なく項垂れ、それから両手で頭を抱え、わしわしと髪を掻き毟り、そのまま仰け反るほどに大空を仰ぎ見た。
彼は──叫ぶ。
「いったいこれは、どういう仕打ちなのですか? マドモアゼルーーっ!!」(もうマダムだって)

 

 

 

「そう言えば、例のハガキはもう出したのか?」
新妻が訊いた。
「勿論。とっくに出したよ。五枚目もほら、そこに飾ってあるだろう」
夫が答える。
「なかなか良く撮れているな」
新妻は窓際に凭れかかり、フォトフレームをじっと眺める。
「作って良かっただろ?」
「まあ──そうだな」


アンドレはにっこりと微笑わらい、写真のように新妻を抱え上げた。
「わ! 馬鹿っ、下ろせ!」
長い腕がつややかな髪を掻き上げ、唇が耳朶を食む。
しなやかな背中が震えながら仰け反った。そのまま二つの躰がソファへ沈む。
「ア、アンドレ……?」
「新婚らしいこと、しようか?」
答えを待たずに、アンドレはブラウスのリボンをしゅるんとほどき、その隙間へ指を忍ばせる。生温かい快感に、オスカルは戦慄しそうになった。堪えて。唇を嚙む。
「強引だな」
「夫だから」
「どういう理屈だ」
「今すぐ──、お前が欲しいから」
呪文のような低い囁き。
媚薬のような甘い吐息。
そうして──彼女はまた、甘美な降服を余儀なくされる。薔薇の花芯が熱をもち、生々しい朱赤に変幻かわる。

 

 

その頃、と或る閑静な住宅地では、悲運な男が未だ枕を濡らし続けているそうな──。

「マドモアゼルうぅーーっっ!!」
(だから、もうマダムだってば)

 

 

 

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(pixivからまんま転記するだけじゃ面白くないと思い)アメブロでしかできない機能を使って時々遊んでおりまする。

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