こちらのシリーズも少し話を進めます赤薔薇

 

 

 

 

アンドレが外出した30分後に、オスカルは家を出た。
「たまには、外で待ち合わせしよう」
それは、彼からの突然の提案だった。
同じアパルトマンに住んでいて、同じレストランに出かけるのに、わざわざそんな面倒なことをしなくてもと思ったが、今日は彼の誕生日なので、目を瞑ってやることにする。
途中、甘い匂いに立ち止まった。
店の奥から、店員が焼き立てのクッキーを運んでくる。
約束の時間には、まだ若干余裕がある。オスカルは、ふらふらっと店に入った。
いらっしゃいませ、とバスケットを持った店員が振り返る。バスケットの中を見て、昔のことが蘇った。

 

その日は、アンドレの10歳の誕生日だった。
三時のおやつの少し前、オスカルが一階へ下りていくと、二番目の姉がクッキーを作っているところだった。
お菓子作りなんて興味はなかったが、この姉の作る焼き菓子は好きだった。オスカルにしては珍しく「ぼくもやりたい!」とキッチンへ飛び込んだ。優しい姉は「じゃあこの生地を抜いてみて」とクッキー型を一つ、小さな手のひらにのせてくれた。
それは星の形をしていた。
オスカルが勢いよく、すぱすぱ抜いた10個の星を、姉は他の形の生地と一緒にオーブンに入れた。やがて、香ばしくて甘い匂いがキッチンいっぱいに広がって、白い星は、みるみるうちに黄金色に膨らんだ。

 

「アンドレにあげるのね」と姉はクッキーを可愛いハート柄の紙袋に入れてくれた。
……どうして分かったのだろう?
オスカルは不思議だったが、あまり深く考えることもなく「ありがとう!」と紙袋を抱え、外へ飛び出した。
姉さんは何でも知っている~、と口遊みながら。
いつものように、出窓から幼馴染みの名を何度も叫んだ。アンドレが慌てて出てくると、早く早くと手を引いて、二人同時に銀杏イチョウの樹までよーいどん!
夏の日差しはきつかったけれど、樹陰は涼しくて爽やかだった。昔は今ほど厳しい暑さではなかったのだ。

 

『アンドレ、誕生日おめでとう!』
クッキーを手渡すと、アンドレは、ありがとう、と言ってから、袋を開いた。
『わぁ星だぁ』
アンドレは、クッキーを二つ摑み、腕を伸ばして太陽にかざす。
『溶けちゃうよう』
『溶けないよぉ』
それをパクリと頬張って、もう一個をオスカルの口に放り込んだ。
『甘ーい』
『甘いねぇ』
それから、次の二つも分け合って、その次の二つも分け合って、結局最後まで半分こ。

その晩オスカルは、星の海を泳ぐ夢を見た。もちろん、アンドレと手を繋いで。
何故か、手に取るすべての星はクッキーで。
夢の中で、オスカルは、お腹いっぱいになったのだった。
このまま躰が重くなり、本物の海に落っこちたらどうしよう。
『魚になっちゃう?』
『ならないよう』
『人魚になっちゃう?』
『ならないよう』

 

キラキラ キラキラ キラキラ

 

その店のクッキーも星の形をしていた。
オスカルは、昨日までのアンドレの歳の数に一枚足して、クッキーを注文した。
店員は、にっこりと微笑んで、「お誕生日プレゼントですか?」とクッキーの入った半透明の袋を差し出す。綺麗なリボンが掛かっていた。
──どうして分かったのだろう?
中途半端な数だから? まあ、良いか……。
待ち合わせ場所に着くと、アンドレの方が先に来ていた。
アンドレはオスカルの恰好を見て、瞬きを二秒止める。非常に珍しいことに、彼女がワンピースを着ていたからだ。

 

 

アンドレがスカート姿のオスカルを見たのは、これまで数えるほどしかない。
柔らかいシフォン生地と段々のレイヤード。グラデーションになっている淡いグリーン系シャーベットカラーが涼しげで、フレアの丈は膝が丸見え。その上、ノースリーブだった。
「あ、あのさ……、それ、今は良いけど、レストランに入ったら寒くないかな?」
アンドレは、剥き出しの肩と膝小僧を交互に見る。履いているサンダルも、ストラップが細く華奢で、白い素足が心許なかった。
「大丈夫だ。ちゃんと羽織るものは持ってきたから」
オスカルは五分袖のボレロを見せる。
「そう。それなら……」

それでもアンドレは心配そうだった。
やっぱり少し露出が多かっただろうか。オスカルは少し後悔の念に駆られる。
「……似合ってるよ」
前方を向いたまま、ぼそっとアンドレが呟いた。
「……聴こえないぞ」
すると、彼は、彼女の耳朶に唇を寄せる。
「綺麗だよ」
オスカルの表情が一変した。にこにこ。
「お前の誕生日だからな」
「え? 俺のために?」
他に誰がいると言うのだ。
「じゃあ今から、お前以外の男に見せに行こうか?」
ワンピースで仁王立ちする長身の美神アフロディテ
「じ、冗談じゃない!」

 

アンドレは、辺りをぐるりと見渡した。今、彼の目の届く範囲にいるすべての男の視線を感じる。それは、あながち間違いではないだろう。
「オスカル、それ、羽織ってくれないかな」
「えぇー、もう? まだ暑いのに」
「今日は、誰の誕生日?」
オスカルは、渋々、ボレロを羽織った。
誕生日だからってエラソーに……。
覚えていろ。クリスマスになったら、同じ手で、お前をけちょんけちょんにしてやるからな。
お嬢様、お言葉が乱れております、と執事がいたら注意されたに違いない。
アンドレは、周囲から彼女の躰を隠すように肩を抱く。
「歩きにくいっ!」
オスカルは叫んだ。

 

レストランの席で、オスカルはアンドレに、クッキーの袋を手渡した。
「アンドレ、誕生日おめでとう」
「ありがとう。いい匂いだね」
彼の顔から笑みが零れる。
「クッキーだ」
「もしかして、星の形?」
──どうして分かるのだろう?
食事は大変美味しかった。
帰りがけ、アンドレは、シャンパーニュを一本購入した。オスカルが不思議そうな表情で覗き込む。
「珍しいな。飲み足りないのか?」
「うん……、まあね」
何処となく、歯切れの悪いアンドレだった。

 

 

 

 

アパルトマンのドアを開けた途端、薔薇の香りの洪水が彼女を襲った。
「ななな……何だ!? これはっ!」
部屋のテーブルとソファと床の上に、大量の大輪の薔薇薔薇薔薇バラバラバラ
百万本の薔薇の花を~♪ は流石に多過ぎるが、あなたにあなたにあなたにあげる~♬ くらいの勢いにオスカルは総毛立つ。

 

「えっと、一度やってみたくて……」
恋人が口籠るように言った。
このために、わざわざ外で待ち合わせをしたのか……。
オスカルは開いた口が塞がらない。
「お前は馬鹿か?」
お嬢様、暴言が過ぎます、と執事がいたら……。
「今日は、お前の誕生日なんだぞ」
「だから、今年も誕生日を一緒に過ごせて嬉しいよ。その気持ち」
「な、何を今さら。そんなこと……」

 

稀に、オスカルの想像を遥かに越える行動をこの幼馴染みはやってのける。今思えば、初めて彼とともにした《嵐ではない夜》もそうだった。
いったいどんな環境で育てたら、こんな常軌を逸した行動をする人間に仕上がるのか、と彼女は暫し憂慮する。
自分が、その基盤の九割を固めた張本人であることは棚に上げて。
「でも、こんなにどうするんだ? このままじゃ枯れてしまうし、花瓶だって足りないぞ」
「そうだな。ちぎってバスタブに浮かべようか」
「えっ? これを全部?」
「全部は多いかな。でも今年は、特別な日にしたいから」
「特別って? 何が?」

 

まあまあ、とオスカルの質問をはぐらかし、アンドレは、てきぱきと入浴の準備を進めていく。まるで18世紀の従者のように。
気がつくと、バスタブは薔薇の花弁でいっぱいになった。すぐ横のガラス棚には、シャンパーニュとグラスが二つ置いてある。
そして気がつくと──いつの間にか、彼女はバスタブの中にいた。恋人と一緒に。
──何故だ……?
オスカルは呆然とする。
もしや知らぬ間に一服盛られたのかもしれない。
アンドレは、シャンパーニュを注いだグラスを彼女に手渡す。乾杯、と彼が言った後、オスカルは一息に飲み干した。
一瞬、ぐらりと目が回る。
これはたぶん、湯気に煽られた薔薇の香りのせいだろう。
当然のことながら、花弁の下は、二人とも裸だった。バスタブから覗く恋人の精悍な半身に、(相も変わらず)くらくらするお嬢様。

 

「なんだか……、貴族になった気分だ」
オスカルは、空のグラスを必要以上にゆらゆら揺らす。
何でもいいから喋っていないと、恥ずかしくて仕方がない。お湯に浸かると人魚に戻る躰なら良かったのに、と子供みたいなことを考える。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、アンドレは突然、行動を起こした。シャンパーニュをぐいっと一気飲みして。
やるときはやる男、アンドレ。
否、本当は、彼の方が、ど緊張していたのである。

 

「お、オスカル!」
アンドレは、背後から彼女の腰を抱き寄せた。
「わあっ! 何をする!?」
オスカルはグラスを死守した。ムードよりも何よりも酒が命のお嬢様。
彼は彼女の手からグラスを取って、そっと浴室の棚に置いた。仕切り直し。
「オスカル」
「な、何だ?」
気がつくと、オスカルの躰は彼の膝の上にのっていた。奇術師か? アンドレは蒼い瞳をじっと見つめる。
「結婚しよう」
「……はい?」

 

キサマ、場所をワキマエロ。
お嬢様、お言葉が……。
まあ、別に断る理由もないので承諾した。
オスカルが23歳、アンドレが25歳(になりたて)の夏の出来事であった。

 

 

 

 

おまけ/豆菓子付珈琲店にて

 

ここは、馴染みのカフェより二軒奥まったところにあるコーヒーショップ。まだ、あの新商品は食べていない。
ひょんなことから、プロポーズの話になった。
「え、場所?」
友人は淡く頬を染める。それから、ぽつぽつと語り始めた。
「ドイツにいた時、よくデートした川があって。そう、ドナウ川。そこでね……」
彼女はカフェオレを両手で持ち、恥ずかしそうに俯く。

「それでね、いきなりだったから、ボク、びっくりしちゃって」
いきなりなのは、同じだった。
「ねえ、アンドレは? どんなプロポーズをしてきたの?」
飲み込もうとしたコーヒーが喉で止まる。
「ど、どんなって……、普通だ。ごく普通に、結婚しようって……」
「場所は何処? アンドレのことだから、お洒落なレストラン?」
オスカルは、思わずせそうになった。
そして、手に持った豆菓子を握り潰した!

 

(薔薇まみれの素っ裸で、蜜(密)着状態のお湯の中、なんて)
い、い、言えるか~~っっ!!!

 

 

 

赤薔薇 赤薔薇 赤薔薇

 

 

赤薔薇アメブロ書き下ろし赤薔薇

 

 

「よおっ、プロポーズしたんだって?」

パリの街中で、出会い頭にデカい声。

アンドレは慌てて目に付いたカフェに男を引き摺り込んだ。

「誰に聞いた?」

「ユリウスに決まってんだろーが」

「どこまで知ってる?」

「はあ?」

「い、いや、何でもない……」

こいつ何かど派手なサプライズでも仕掛けたのか? という疑惑の鳶色がにやりと笑った。

 

喋ったらコロス──。

アンドレの脳髄を百万本の薔薇を振り上げている金髪の般若の顔が占拠した(でも綺麗だ)。

 

「コーヒー飲むだろ? 奢るよ」

深呼吸してから、アンドレはにっこり笑う。そして期待で胸いっぱいの悪ガキのような顔をした大人に向かって毅然とした態度で言った。

「その前に、お前のプロポーズの話を聞きたいな。ユリウスは泣いたかい?」

クラウスはそれきり口を噤んだ。

無礼で無作法に見える友人が誰よりも紳士であることを、アンドレは知っている。

 

「それより、会えて良かったよ」

若干声を抑えてアンドレは言った。

「実は……、相談があるんだ」

アンドレ・グランディエのサプライズ好きは──当分収まりそうにない。

 

 

 

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