知らぬ間に紛れ込んだ
落ち葉のページを捲るように
忘れていた想い出を辿っていこう、これからも
──二人で

 

 

 

 

 

ヴィルクリヒ家にて

 

 

「よう、馬子にも衣裳だな」
ドアを開けた第一声がそれだった。
うるせぇよ。ヘルマン・ヴィルクリヒ」
クラウスは不貞腐れた顔で、事もあろうに、間もなく義理の父になる相手をぎろりと睨む。だが、それくらいで怯む男ではないことも昔から知っている。
身につけているのは、ごく普通のダークグレィのスーツだった。珍しくも何ともない。

 

「カッコいいでしょう」
ユリウスは、婚約者の腕に手を添えて、にっこりと微笑んだ。
「ネクタイは、ボクが選んだんだよ」
クラウスは、思わず彼女を抱き締めたくなった。
「まったく……、相変わらずだなぁ」
半ば呆れた表情で、ヴィルクリヒは鼻息を洩らす。
「お前たち、もう何年になる?」

「八年です」

ユリウスが即答した(指折り数えて待ち望んでいたのが丸わかりである)。

 

「ほぅ……八年か。そろそろ飽きがきたりしないのか?」

「そんなこと、有り得ません」
ユリウスは頬を膨らませた。
「人のこと言えんのかよ」
クラウスが、ここぞとばかりに反撃に出る。
「その倍以上の時間、しつこく、しぶとく待っていたのは何処のどいつ……」
「分かった、悪かった、撤回しよう」
ヴィルクリヒは慌てて遮った。
その傍で、くすくすと瓜二つの母娘が笑っている。

 

 

クローバー クローバー クローバー

 

 

「結婚します」
背筋を伸ばし、膝に手を置き、幾分緊張した声で、クラウスは宣言した。
片方の手は、隣に座るユリウスの手を握っている。
その手は乾燥していて、存外冷静なのではないか、とユリウスは感じた。
反対に──、
──本当に、クラウスと結婚するんだ。
夢じゃなくて、本当に……。

そう思い浮かべた刹那、彼女の胸の奥から、捉えどころのない何かが膨れ上がってきて……、
じわじわと涙が溢れる。
俯くと零れてしまう。
瞬くと流れてしまう。
向かいの席に座っている母親が気がついて、ハンカチを差し出す前に、クラウスの指が掬ってくれた。

 

「馬鹿だなぁ、今から泣いてどうするんだよ」
子供をあやすみたいな優しい声。
──大人ぶっちゃって。
二歳だけ大人だからって。
「だって……、勝手に出てくるんだもの……」
「蛇口壊れてるんじゃねえか?」
クラウスが首の後ろを覗き込んだ。
「どこだぁ? 元栓は」

「もぉうっ、クラウス!」
涙が止まる。
全然大人なんかじゃない! とユリウスは前言を撤回した。
二人の前で、仲睦まじげな夫婦が寄り添って、くすくすと笑っている。
ボクたちも、いつかはあんなふうになれるかな……。

 

 

 

 

 

 

ホテルの部屋で

 

「あれはあれで幸せなんだろうが」
ネクタイを緩めながら、クラウスはにやりと笑う。
「俺は、いつでも臨戦態勢の猫みたいに、突っかかってくる妻の方が好みだな」
「それって、どういう意味?」
ユリウスが眉根を寄せて顎を上げた。

「ほら、その表情かおだ。気づいているか?」
「何のこと?」
「オルフェウスの窓で、俺を睨め上げたときのだ」
碧の瞳が大きく瞬く。
「あの瞬間──、俺は、お前にとっ捕まった。だから、その瞳を見ると、未だに身動きが取れなくなる」
「嘘、だ」
ユリウスは否定した。
「あの時は、ボクのこと、まだ男だと思っていたじゃない」

「関係ない、そんなことは」
すぐに、クラウスが否定する。
「男だろうが女だろうが、魅入られたことに変わりはない。俺だけに見える……金色の髪の天使にな」
こんな台詞、何度繰り返したことだろう。
──もう何度聴いたろう。
それでも……、
まるで初めての告白のように、静脈が収縮する。
──初めて打ち明けられたかのように、心臓が早鐘を打つ。
視線を見据えた。……否、目を逸らせない。
クラウスは、ネクタイをサイドテーブルに放り投げて彼女に近寄る。かわす間も与えられず、ユリウスは抱き締められた。

 

「何だよ。納得していない顔だな」
「そんなこと……」
唇を奪う。その次を言わせぬように。
「……んっ……」
少年のような粗野なキス。
そのままベッドへ押し倒し、白い首筋へ唇を押し当てた。
「だ……駄目だよ、クラウス」
ユリウスは藻掻く。けれど当然、力では敵わない。
「これから、イザークと会うんだから」
「ちょっとぐらい良いだろ?」
「貴方のちょっとは、ちょっとじゃないの」
「長旅の後の緊張でくたくたなんだ。お前の、エネルギー充填が必要だ」
悩ましげに揺れる鳶色の瞳。
くらくらと……眩暈がした。

 

──だ、だめだめ……。
ここでほだされたらアウトだ、とユリウスは心を鬼にする。
「嘘、全然緊張しているように見えなかったよ」
「ヴィルクリヒの顔を見たら、一気に緩んだ」
スカートを捲り上げながら、無骨な手が太腿を這っていく。
彼女の肌のあらゆる部位を知り尽くしている指が。
「条件反射だな」

 

「や……んんっ。ん……」
どうしよう、全然効いてくれない。
「だから、駄目だって……言ってるのに」
「お前の駄目、は反対の意味だろ?」
「ち、違うか…ら……」
全身が徐々に熱を帯び。
恍惚の──戦慄が走る。
自分の意思で振り解けなくなる。その前に……、

 

「ホントに駄目……、ワンピースが皺になっちゃう」
ユリウスは震える手で、やっとの思いで彼の躰を引き剥がした。拗ねた少年みたいな顔が自分を見つめる。
「まさか、キスマークつけてないよね?」
ユリウスは首もとに手を当てた。熱く湿っていた。
「つけてほしいのか?」
「馬鹿っ!」
彼がネクタイを締め直すまで、もう一悶着あり、危うく遅刻しそうになった。
ときどき、二人の間で、大人と子供が逆転する。

 

 

 

 

迷える羊

 

 

結婚式で、ピアノを弾いてほしい、と頼まれた。
「イザークなら軽いもんでしょう?」
と君は笑う。
以前、何処かで、同じような台詞を言われた気がする。
あれは、予知夢だったのだろうか……。

──とうとう結婚してしまうのか。
今度生まれ変わったら……、
それでも無理だろうな……たぶん。
──今度生まれ変わったら……、
もう少し自信の持てる自分になりたい。
彼女に出会うまでに。
出会うのはそれからだ。

 

──そんなに都合良くいくものか。
「イザーク?」
天使の声に我に返った。不安げな顔が見つめている。
「もしかして気が進まない?」
「ま、まさか! 喜んで引き受けさせてもらうよ」
「良かった」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、イザーク。よろしくね」

 

君は躰を弾ませて、両手を差し出す。そして、ほっそりとした指を無邪気に僕の手に絡ませた。
断っておくが、もちろん隣には彼女の結婚相手が座っていた(不機嫌に見えたのは僕の思い過ごしではないだろう)。
幾度か、喧嘩の場面に出くわした。
原因は、いつも取るに足らないものばかりで。
だけど、その度に、彼女の心の透き間に踏み込めたら……、もしかしたら……、なんて浅はかにも期待した。
慰めの言葉もままならないうちに、彼がまた攫っていってしまうのに。
計り知れない時間を過ごしてきた二人の密度と、
自分には想像もつかぬほどの互いの想いを埋める術も知らないくせに。

 

未熟者。
──未熟者。
30になっても、40を超えても、このままずっと成長しない気がする。まるで妖精の世界ネヴァーランドに棲む少年のように。

 

 

クローバー クローバー クローバー

 

 

「大丈夫。毎年、薄皮一枚ずつだが、確実に殻は剥けているさ」
「そうで……しょうか?」
長い付き合いの先輩の助言ですら、半信半疑だ。
「同じ想いを抱えてきた僕の言葉を信じたまえ。──同士よ」
「ど」
──同士って……。
彼が僕と同じ想いを抱えてきたことは、痛いほど知っているけれど……。

 

「焦ることはない。いつかお前にも、お前だけの運命の出逢いがきっと訪れる」
僕だけの……?
「そう。イザーク・ヴァイスハイトだけを見てくれる相手がな」
僕だけを……?

 

 

クローバー クローバー クローバー

 

 

鳥の囀りが聴こえる。
『イザーク。朝だよ、イザーク』
──誰だろう? 僕の名を呼んでいるのは……。
焼き立てのパンの匂いが鼻孔を擽る。
『イザーク、遅刻するよ。早く起きて』
声が近づく。
誰だろう? 僕を起こしにくるのは……。

 

薄目を開く。だけど、見えない。
朝の光が眩しくて……。
違う。
眩しいのは君の髪だ。
光よりもまばゆい君の……、
『イザーク、まだ起きないの?』
もっと声が接近する。
聴き覚えのあるような、ないような……。

 

──うん、今、起きるよ。
『イザークったら、もう……』
目が開けられないんだ、眩しくて。
すべての光が、この部屋の窓に集中攻撃をしているみたいで。
『早く起きないと、チュウしちゃうぞぉ』

 

…………え?
「うわあっっ!!!」
飛び起きた。
ぐるん、と周りを見回す。二周。
「いででで……、く、首が……」
一人だった。
一人暮らしの部屋だった。しかも、一条ひとすじの光さえ射さない曇り空。
「なんだ。あぁ……」

 

……夢だった。
僕は、シングルベッドの上で、首をさする。
──殻なんて、まだまだ、全然、まったく剥けていませんよ、……先輩。
何処かから、パンの匂い。窓も開けていないのに。
夢の続きを見ているのだろうか……。
──いい加減、目を醒ませ。
僕は頭を振り、コーヒーを淹れようと立ち上がる。
シングルベッドが、ぎしりと鳴った。

 

 

 

 

 

 

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