お日様に貰はれてゆくしやぼん玉/西上禎子句集『白魚』
晴れ渡る秋空に、シャボン玉を追いかけ、はしゃいでいる園児たちを見て。
二人とも十代、まだ恋人になって間もない頃。そんなイメージでお読みいただけたら。
花屋の店先に、シャボン玉セットが並んでいる。ピンクのプラスチック容器と黄緑のストロー入りのビニル袋が五つ。
まるで夏の忘れ物みたいに。
格安、いや叩き売り価格である。
「買いたい」
あまり物を欲しがらないユリウスが珍しく呟いた。鞄から、自分の財布を出そうとする。
「それくらい俺が出すよ」
「え、良いの?」
「一つでいいのか?」
「うん。ありがとう、クラウス」
ユリウスはにっこり笑って、シャボン玉セットを手に取った。
こんなもの、五つ買っても、何処かの珈琲チェーン店のショートサイズより安いのに。
それを持って、お決まりのドナウデートコースへ進む。お決まりと言ったって、まだまだマンネリには程遠い。手を繋げば、白い顔は紅色に染まるし、肩を抱いただけでカチコチに躰が固まる。
彼女が俺と夜明けのコーヒーを飲める日は、ワープでもしない限り、少なくとも百万光年先だろう。
そんな冗談みたいな想像をしていると、草地にしゃがんだユリウスがシャボン玉を吹き始めた。
吹いては手を伸ばし、また吹いては手を伸ばしている。
指先でシャボン玉がパッと消え。そのうちに立ち上がり、今度は川に向かって飛ばし始めた。
水面擦れ擦れにシャボン玉の音符が連なる。なかなか上手い。
「ねえ、今度はクラウスが吹いて」
ユリウスは容器とストローを差し出した。
「いいのか? 間接キスだぞ」
誰もが思いつくような使い古した冗談だった。ユリウスは少し考えて、みるみる顔が真っ赤になる。
「き、キスなんて、しょっちゅうしてるじゃない」
「へえぇ、しょっちゅうね」
「いいから早く! 川じゃなくてこっちにね」
俺の言葉を躱すように、ユリウスは川岸と反対の方向へ走っていく。
「よぉし、見てろよ」
ストローを口に咥え、俺は息を吸い込んだ。
「わあっ!」
勢いよく飛び出していく虹色の泡。
大、小、中。それらが渦を巻くように空へ昇る。
「クラウス、上手!」
シャボン玉の数が増えるたび、ユリウスは嬉しそうに跳び跳ねながら、どんどん俺から離れていく。
たかがシャボン玉くらいで。
子供じゃあるまいし、と呆れる。
あぁ……、そうか。
俺は、彼女の不遇な子供時代を思い浮かべた。
心の底から楽しんだこと。外で思い切り遊んだこと。彼女にとって、それは数えるほどだったのかもしれない。
「クラウスー、もっともっとーっ」
遠くからユリウスが叫んだ。俺は目いっぱい飛ばしてやる。シャボン玉は風に乗って彼女のもとへ。
「凄い、凄い、すごーい」
ユリウスの頭上で、シャボン玉が弾けて光る。
空に広げた彼女の指が、無数の透明な鍵盤を弾いているみたいだった。
秋空に淡く光る金の髪。
そのまま背中から羽が生え、スカートが空気を含んで丸くなり、シャボン玉と一緒に浮き上がり──
「ユリウスっ!」
走り寄って、捕まえる。
思ったよりも近かった。
もっと遠いと思っていたのに。
それとも……、夢を見ていたのか。
「……どうしたの?」
きょとんとした顔が俺を見る。
「あまり遠くに飛んでいくな」
「え? ボクは飛べないよ。シャボン玉じゃないんだから」
ユリウスは肩を竦めた。
その肩を抱き寄せて、草地の上に座らせて、地面に背中を固定する。
もう羽を広げられないように。
それから、鍵をかけるようにキス。間接じゃない長い口づけ。
でも、やっぱり、まだ彼女は慣れなくて……。苦しげに逃げる唇。
微かで甘い、吐息。
「シャボン玉とんだ、屋根までとんだ」
ユリウスが口遊んだ。
「そんな歌、あったか?」
……そんな歌で誤魔化すつもりか?
「音楽の教科書に載ってたよ」
「そうだっけ?」
「シャボン玉消えた、とばずに消えた」
唇が、唇に震え伝わる。
「生まれてすぐに、こわれて消えた」
「ユリウス?」
「これはね、……二番」
ユリウスが歪んだ顔を覆い隠す。泣いていた。
いったい何が起きたのか。理解できずに狼狽する。
「昔ね……、シャボン玉みたいに消えてしまえたら良いのに、って思ってた。だから……」
目を擦りながら、彼女は、はあっと息をして。
「シャボン玉が嫌いだった」
それは、生まれたことを後悔した。そういう意味か……?
「でも、今は好き。シャボン玉も、シャボン玉の歌も大好き」
……クラウスも……大好き。
泣き笑いの表情。細い腕がシャツを摑んでしがみつく。
しっかりと、受け止めた。
「それはね、クラウスのお陰なんだ」
耳に届く確かな言葉。
「クラウスに、出逢えたからだよ」
──シャボン玉とんだ。
──屋根までとんだ。
「それはいいけど、」
俺は両手で彼女の頬を包み込む。頭まで固定するように。
「あまり遠くまで飛ばすなよ」
「これじゃ飛ばしたくても飛ばせないよう」
ユリウスが頬を膨らませる。
それでも俺は、腕の力を弱めることができないでいた。一瞬の油断で、彼女の躰を風が攫っていきそうで……。
──かぜ、かぜ、吹くな。
──シャボン玉とばそ。
「クラウス、重いよ」
「うるせっ。じっとしてろ」
「ねえ、シャボン玉の容器は?」
「悪い。さっき落としたとき、全部零れちまった」
「えぇっ? 酷ぉい」
「また買ってやるよ」
「明日?」
「ああ」
また明日。
──シャボン玉、とばそ。