暑い。酷く。
セーヌに巣食う水の魔物が川底で火でも焚いているのか──。そんな幻想を抱かせるような蒸し暑さだ。
葉擦れひとつない無風の夜。寝苦しさの余り、まんじりともせず夜明けを迎えた。
躰まで湿っているみたいに重い。手をついて起き上がる。
シーツがしっとりと濡れていた。洗濯しても、この湿気では乾くまい。
窓の外側は白一色だった。吹雪、ではない。霧なのかもやなのか──。
後ろを振り返る。もぬけの殻だった。
「オスカル?」
何処へ? こんな朝早くに。
シャツを羽織り、ドアを開け、外へ出た。
濛々と立ち籠める白い煙を掻き分けながら前進する。樹々を避け、獣の気配に耳を澄まし。
この付近で危険な目に遭ったことは未だないが、人間と同じように迷い出てくるものがいないとも限らない。用心するに越したことはない。
どれくらい進んだろうか。
「オスカル、何処だ?」
声が白い闇に反響する。
俺は何処へ向かっているのか。そもそも、彼女がこの霧の中を出ていったという確信も無いのに。
肌に纏わりつくような不快感は増す一方だ。
自分の立っている位置すら判らなくなる。目は開いているのに閉じているようだった。歩いても歩いても、霧の壁。

 

肌を合わせるごとに女になっていく──。
羽衣を落としていくように。戦慄するほどに。
けれど、軍人の血なのか、生まれつきの性質か、長年の環境のせいなのか、最後の一片が剥がせない。そんな気がする。

 

狂わせてみたい。もっと。
唇を嚙み、指を嚙み、俺の背中に爪を立て、
潤んだ瞳。俺を迎え震える躰。俺を呼ぶ声。切れ切れの喘ぎ。甘い息。

 

狂わせたい。
──もっと……。

 

俺では無理か。
かつて、彼女の心を乱したの国の男のように。
──いい加減自信を持ったらどうだ。
目が覚めた時、二つ並んだ狭いベッドの片側で、小さくともたしかに刻む心の臓を確認した時、あぁ生まれ変わったのだと、半神を失わずに済んだのだと安堵した。
あの時、神に感謝したではないか。それだけで十分だ、と。

 

頭を強く振る。この霧のせいだ。或いは霧ではなく、人を惑わす何か得体の知れない気体ガスかもしれない。
何を望む? これ以上……。
見上げると、空だけは鮮明な青だった。
消えかけの金星きんぼしが喘ぐように瞬いている。隣にいるはずの銀星ぎんぼしは既に見えない。
ああ、まただ──。
長年沁みついた関係性は、そう簡単には覆せない。覆すつもりは毛頭ないが。

 

ピシャ……ン。
水の跳ねる音。
この先には、確か渓流があるはずだ。
また、水の音。浅瀬を歩くような足音。誰かいる。
頭上に覆い被さる枝葉から、幾筋もの細い光が射していた。光と影のカーテンを交互に進むと、前方に一際立派な大樹が出現する。その幹に手をつき、蛇のようにうねる根を踏み越えた。
突然、霧がひらける。

 

岩場の蔭で、水浴びをする天女。この時の俺にはそう見えた。
真っ白な躰。衣服の代わりに、黄金の髪を足首まで纏わせて。まるで全身から光を放っているかのように。
「オスカル……?」
天女が振り向く。

 

 

 

 

目が覚めると、天女が覆い被さっていた。
白い額がしっとりと汗ばんでいる。アンドレは指でそっと汗を拭った。ぶるりと躰が震え、その振動が胸に伝わる。
肩にのっていた細い指が微かに動く。肌ではなく産毛を掠る。ほんの数ミリである。恐らく無意識だろう。何故なら、彼女の睫毛は閉じたままだからだ。
それが、引き金になった。
──何の?
そんなことは言わずもがなだ。左手の自由は彼女の躰に押さえられていたので、自ずと右手が輪郭を辿るように蠢きだす。
今は冬である。なのに、この朦朧とするような暑さは何だ?
──まだ夢の中にるのだろうか……。

 

太腿の内側に右手が忍び入った時、彼女が目覚めた。
「何を……している?」
冷たい声。普通の男なら、ここで怯む。
「おはようオスカル。躰を退けてくれないか? 左手が痺れてしまって」
そして瞬時に、不届きな右手を引っ込めるだろう。
「は? お前、その前に……」

 

片手に全神経が集中する。それを少しずつ分散させ、彼女の口が開くたび、唇で黙らせる。舌で抵抗を封じ込める。
声が吐息に変わる頃、唇を首筋へ移動させ──、
吐息が喘ぎに変わる頃、膨らみに唇を滑らせる。頂へ。

 

狂わせてみたい。もっと。
俺の滾りと同じくらい……。

 

もう止まらなかった。止めることができなかった。
──俺は夢に対抗していた。
今は真冬だ。裸でいれば凍えるほどの寒さだ。けれど、眩暈がするほどに暑い。熱い。

 

髪の毛から爪先まで知り尽くした躰。だのに、未だ足りない。まだ欲している。
この指が、この唇が。この舌先が。
既知の場所から新たに生まれる未知の感覚を、彼女も知らない官能を暴き出そうと、ざわざわと蠢動しゅんどうする。貪欲に。

 

狂わせたい。
──もっと……。

 

彼女の躰にも汗が滲む。白い息が浮遊する。熱を帯び上気する頬。
「寒い? オスカル……」
得も言われぬぬるい声。それが彼女の引き金になった。

 

喘ぎが音色に彩られる。
それから、
天女が衣を脱ぎ捨てた。

 

 

 

 

※溽暑(じょくしょ)/蒸し暑いこと。

 

 

 

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