イカれている──と言われているのは知っていた。
少年の頃から、嫌というほど投げつけられた否定的な言葉の数々。
身分違い。身の程知らず。恥知らず。
平民の分際で──。

 

けれども、彼女だけは言わなかった。一度たりとも。
誰よりも自分の近くに居た──黄金の髪の乙女。信念を湛えた蒼海の瞳。
命を懸けて護られた。
命を賭して護ろうと誓った。
それなのに。

 

余りにも近くに居たせいで、
幼馴染みという理由だけじゃない筈だと、
誤解もした。自惚れもした。──若かったあの頃。
どれだけ傷つけてきただろう……。

 

「そのことに関して言えば、わたしだって同罪だ」
今、隣にるのが夢のような声が言った。
否──まだ夢を観ているのかもしれない。
緩慢ゆるゆると右手を頬へ運ぶ前に、
「いっでーー!」
白い手が男のほっぺたをひねっていた。思いっ切り。
「いだい、いだいって──オスカ……」

 

「お前が、ぼーっと夢を観ているような顔をするから、代わりに捻ってやったのだ」
ふん! と男を睨みつけ、彼女は鼻息を漏らす。
「そんなにわたしが隣に居るのが嫌か」

 

「な……っ」
逢魔刻おうまがときは、女を妖婦にもじゃにもする。
「そうじゃない! お前と一緒に居られるのが今でも俺は信じられなくて、これは奇跡か夢じゃないかって……い」
つねる指が強くなった。流石、素晴らしい握力は未だ衰え知らず。
「いっってー!」

 

「煩い! 夢だの奇跡だの、お前は恋愛小説のヒロインか? いい加減現実をろ! わたしの躰は擦り抜けたり消えたりしないし、光りもしないッ」
眼が眩むほどの光を振り撒いて数多の男を狂わせてきたではないか、とアンドレは心で呟く。
「くだらない。時間の無駄だ」
遠い日の軍神のように彼女は吐き捨てた。その癖、いとけなく映るのは、顔の造形と対比して円らな瞳のせいだろうか。
幼い頃と変わらぬ目──。
服に隠れていても見て取れるしなやかな稜線は、十分に熟れた女のそれだというのに。
そうしたのは自分なのに……。

 

自分と、自分以外の男の差は何だったのか。
本来ならば、駒に入ることさえ言語道断だったのだ。
──人は平穏な野に放たれると、考えなくても良いことまで考えてしまうらしい。
「ごめん……、俺の悪い癖だな」
男は決まり悪げに微笑んで、
「お前と男女逆転したらと、時々思うよ」
妻の肩を抱き寄せた。
「足して二で割った方が良くないか?」
彼女は素直に夫の肩に凭れかかる。
「わたしだって……、本当は不安なんだ」

 

「え? 何が?」
アンドレは驚いて彼女を見た。
「お前は、お前が想像しているよりもずっと人気者だと自覚すべきだ」
「人気も……の?」
そりゃあ嫌われるよりはましだが。

「妙齢の娘は元より、子供には直ぐ懐かれるし、その親まで寄ってくるし、この前なんか」
「この前?」
何かあっただろうか……?
「じゃがいもの入った籠をぶちまけた少女を手伝ってやっただろう」
ああ、つい先日のことだった。
それがどうかしたのか? とアンドレは問うた。
「えらく熱い目で、彼女はお前を見つめていたぞ」
「ええ?」
そう、だったっけ?
「だからって、ソフィはまだ15だぞ」

 

次の瞬間、オスカルの目が見開いた。
「何故、名前を知っている? しかも年齢まで!」
「う、うちにいつも野菜を届けてくれるからだよ。名前や歳くらい訊くだろう? 世間話だ」
アンドレは草地に座ったまま仰け反った。
「あのなぁオスカル、俺はあの子と倍以上離れているんだぞ。有り得ないだろ」

 

「は──おめでたいやつめ。そう思っているのはお前だけだ。15はもう立派な女だ、甘く見てると今に寝首を掻かれるぞ」
「ね」
──寝首だぁ?
アンドレは呆れを通り越して笑いが込み上げてきた。
「真っ先に寝首を搔きそうなやつが傍で眠っているのにか? 毎夜、ぴったりと寸分の隙も無く」
「だっ、誰のことを言っている!?」
お前のほかに誰がいる? という熱い眼差しで男は愛しい女を見つめる。そして、次の無駄口が出てくる前に、彼女の唇を封じた。

 

些末ともいえる日常を嚙み締める。
この世で手にすることは叶わぬ──と一度は諦めかけた明日を。

 

 

 

「……けっ」
吟遊詩人ミンネゼンガーが大樹の蔭から嫌悪の視線を送っていた。

 

 

 

 

彼女が家に訪ねてくると、オスカルは二階の寝室へ引き籠ってしまう。
先日、その真意を初めて知った。
まったく──鈍感にも程がある。

 

軍神として生きていく為に、少女の心に蓋をした。
その弊害は、ゆっくりと、しかし確実に、オスカルの精神の均衡を崩していく。
誰よりも間近で、その脆さを体感してきた筈なのに……。
この平穏を勝ち取ったのは決して容易ではなかったことを、危うく忘れるところだった。

 

「アンドレ、今日の野菜はね、カボチャと人参。ほら見て、今年のカボチャは特に出来が良いの。アンドレには大きい方を持ってきてあげたのよ」
「いつもありがとう、ソフィ。本当に立派なカボチャだ。今夜はこれでオスカルにポタージュを作ってあげるよ。大好物なんだ」
「え? あなたが? カボチャのポタージュならあたし得意よ」

真っ直ぐなきらきらした瞳は、幼い頃のオスカルを思い出させた。

 

「馬鹿にしないでくれよ。なんたって年季が違う。君が生まれる前から、ずっとオスカルのためだけに作ってきたんだからね」
「アンドレは、料理人だったの?」
「違うよ。だけどカボチャのポタージュだけは俺が作った。オスカルがそれ以外受け付けなかったんだ。他の料理人が出しても口を付けずに戻ってくる。何が違うんだか、誰にもまるで分からなかった」
「ふうん」
「それに俺が作ったポタージュでも、味に差が出るみたいで、その日の体調をずばりと指摘してくるんだ。ある時、一口含んだだけで、お前熱があるだろう! って言い当てられた時は参ったよ」
「ふぅん……、昔からとても仲が良かったのね」
「だから結婚したんだよ」

敢えて淡々と、至極自然のことのようにアンドレは言った。

 

「知ってるわ」
「詳しい事情は話せないけど、俺たちは一言では言い尽くせないほど苦しんで、それでも互いに離れ難くて、最後の最後で漸く気持ちを確かめ合えたんだ。この糸は未来永劫、誰にも切ることはできない」
「凄く……自信があるのね」
「勿論」

長いとも短いともいえぬ会話の間──アンドレは、ソフィから視軸しじくを外さなかった。
彼女の方から逸らすまで。

 

「あたし、そろそろ帰らなくちゃ」
唇を引き結び、ソフィは睫毛を伏せた。
「引き留めて悪かったね。ああ──もう日が暮れそうだ」
ドアに背を向けたまま、アンドレは空を見上げる。
「平気よ、走っていくから」
「いや、ちょうどいい。彼に送ってもらいなさい」

 

「彼?」
ソフィが振り返ると、大樹の陰に栗色の髪の青年が立っていた。
「え? ユーゴ?」
「さっきからずっと、心配そうにこちらを見ていたよ」
本当は睨まれていた。その気持ちはよく解った。身に沁みて──。
「な、なんで……」
「ほら、森の日暮れは早い。いいね、ちゃんと送ってもらうんだよ」
ソフィは渋々頷いて、青年の方へ小走りに駆けていく。

 

こんなところで何してるのよ──とか、
うるせぇな、偶然通りかかったんだよ──とか、
可愛らしい小競り合いを背中で聞きながら、アンドレは妻の待つ家のドアノブに手をかけた。

 

 

 

 

 

音符イメージ曲「風笛」

 

 

 

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