Süß(甘い)度★
ーこれはまだ彼女が性別を偽って聖ゼバスチアンに通っていた頃の出来事ー
温暖化の影響なのか、二月の初めにしてはおかしなくらい暖かい日だった。
「ユリウス、そんな恰好で暑くないの?」
イザークが訊いた。
「な、何言ってるんだ……、今日は寒いじゃないか」
嘘だった。本当はめちゃくちゃ暑かった。
「ええっ? こんなに日差しがきついのに?」
「ボクは……、極度の寒がりなんだ!」
そうだったっけ? と訝しげな表情のイザーク。
──くそぅ……、どうして今日に限ってこんなに気温が上がるんだ。
ユリウスは季節外れの真夏日を呪った。
今日は、レーゲンスブルク・スイーツマラソン。朝から街中が甘い匂いで噎せ返っている。
コース沿道には給水所ならぬ給スイーツ所が設置され、一口サイズのスイーツやフルーツが所狭しと並べられていた。
スタート地点の大聖堂前。殆どのランナーがTシャツにハーフパンツ姿のなか、ユリウスだけは長袖長ズボンのトレーニングウェアだった。しかも上着のファスナーは、しっかりと首元まで上げてある。
まだ走り出してもいないのに、全身がしっとりと汗ばんでいる。しかし絶対に脱ぐわけにはいかないのだ。
──あんな格好をしたら一発で女だとばれるじゃないか……。
「だいたいどうしてボクがマラソンなんかに出なきゃいけないんだ」
ユリウスがぶつぶつと不満を漏らすと、
「しょうがないよ。ゼバス生は、学年ごとに各科二人ずつ出場が決まりなんだって」
イザークが如何にも優等生らしい返事をした。
「僕も走るのは苦手だけど、スイーツが食べられるのは嬉しいな」
ユリウスは、ふん、と唇を尖らせる。
──お目出度いやつめ。
要するに、ピアノ科の5年生からは、ユリウスとイザークの編入生コンビが選ばれたようだった。
「おうおう、何ぶつぶつ言ってるんだ?」
そこへ、ヴァイオリン科の7年生から選抜された一人、クラウス・ゾンマーシュミットが横から割り込んでくる。
──く、クラウス……!
ユリウスは訳もなく動揺し、瞬間的に、上着の襟元を顎が隠れるまで持ち上げた。
「ヴァイオリン科の7年生代表はあなたですか」
イザークが尋ねると、
「まあな、かったるいったらないぜ」
クラウスは面倒臭そうに答えてから、ユリウスを見て、
「お前さ、それ暑くないのかよ?」
そしてイザークと同じ質問をした。
「構わないでくれ! こっちの勝手だろ」
どうして彼を前にすると、必要以上に突っぱねてしまうのか、
そしてどうしてこの心臓は、いつもの倍の速さで鼓動を打ちだすのか──そう思っていながらも抑えられない。
「相変わらず威勢がいいな、聖者の相棒」
ユリウスはクラウスを睨みつけると、逃げるように立ち去った。
「ユリウス待って! もうすぐスタートだよ!」
イザークが慌てて追いかけていく。
「何だよ? あいつら」
クラウスは面白くなさそうな表情で、二人の背中を眺めていた。
スタート時間まであと五分。参加者がぞろぞろと大聖堂前に集まり始める。
後列でだるそうに大欠伸をするクラウス。前列には、わくわくした顔のイザークと不機嫌な表情のユリウスが立っていた。
「位置について、よーい……」
スターターが腕を高く上げた。
ーバァァーン!!!
一斉に走り出したランナーたちに、忽ち甘い空気が纏わりつく。
それを嬉しいと感じる者、苦痛と感じる者、走者の表情は対照的だった。
「ねえユリウス、あそこのマカロン食べない?」
ユリウスと同じペースで走っているイザークが給スイーツ所を指差した。前半地点で早くも引っかかる甘い物には目のない聖者。
「ごめん、イザーク……、先に行って……」
ところが、ユリウスは早くも疲労困憊、否、熱中症寸前状態だった。
「え? ユリウス、大丈夫?」
「ボクのことはいいから! 上位に入らないと、実行委員長から文句がくるよ」
ゼバスの実行委員長からは、「スイーツ食べ過ぎ注意! 何が何でもゴールせよ!」という厳しい指示が出されていた。
付き添うと言い張るイザークを固辞し、なんとかドナウの橋まで歩いたところで、ユリウスは石畳の上にがっくりとくずおれた。
服の内側は、汗が滴り落ちているのが分かる。
──お水欲しい……。でも、もう動けない……。
今にも気が遠くなりかけたその時、ひんやりとしたものが頬に触れた。
「きゃっ!」
「おい、女みたいな声出すな。大丈夫か?」
「クラウス?」
クラウスが給水所から持ってきた水の入った紙コップをユリウスに渡す。
「ほら、飲めるか?」
「あ、ありがと……」
ユリウスは紙コップを受け取ると、ごくごくと一気に飲み干した。
「立てるか? 少し下の木陰で休んだ方がいい」
「う、ん……」
もう抵抗する気力もなく、ユリウスはされるがままに、肩を支えられながら階段を下りた。
樹に寄り掛かるように座り込んだユリウスの襟元にクラウスの手が伸びてくる。ユリウスは反射的に背中を反らした。
「何するんだ!?」
「何だよ? まだそんな力が残ってたのかよ。首、緩めないと苦しいだろ」
「い、いい! 大丈夫だから……」
「馬鹿やろう! そんな真っ赤な顔して、熱中症になってもいいのか?」
クラウスは強引に襟を引き寄せ、ファスナーを半分下ろした。
「やめ……っ」
ユリウスは、捥ぎ取るように両手で襟を摑む。その弾みで二つの躰が縺れ合ったままバランスを崩した。
「危ない!」
二人同時に倒れ込んだ。クラウスは咄嗟にユリウスの頭を手で庇う。
まるで押し倒されたように、草地に沈んだユリウスの上にクラウスが覆い被さる。
鼻先がぶつかるほどの距離。ユリウスは心臓が飛び出すかと思った。
どきどきどきどき……
「頭、打たなかったか?」
「う、うん……」
クラウスはユリウスの手首を摑んで躰を起こした。
ユリウスが慌てて襟元を確認すると、白いTシャツが覗いていた。
──あ、そうだ、Tシャツ着てたんだ。良かった……。
彼女は、ほうっと息をつく。
「汗、拭いたほうがいいぞ」
クラウスがタオルを手渡した。
「ありがと。クラウス、走らなくていいの? ボク、もう平気だよ」
「構わねえよ。マラソンなんて初めからやる気なかったんだ」
「ふぅん、そうなんだ」
クラウスがユリウスの隣に腰を下ろす。くっつき過ぎでは? と思ったけど、ユリウスは黙っていた。
「あんな甘ったるい匂いのなか、走ってみろ。今度は俺が倒れちまうぜ。まったくスイーツマラソンなんて誰が考えたんだか……」
「甘いもの苦手なんだね」
ユリウスがくすっと笑う。
「ああ、ケーキにマシュマロ、クッキーにマカロン……だっけ? 想像しただけでうんざりだ」
「ボク、マカロン好きだよ」
「そうだな。お前は好きそうだよな。そんな顔してるよ」
「そんな顔って……どんな顔さ?」
「スイーツが似合いそうな、女みたいな顔か?」
「なっ! さっきから女、女ってボクは……あっ」
立ち上がった瞬間、目が眩んだ。
「馬鹿! まだ座ってろ!」
クラウスはユリウスの両肩を支え、そっと地面に座らせる。それから川辺の水でタオルを濡らし、固く絞ってユリウスの頭にのせた。
「冷た……」
「まだ熱いな。動くなよ」
ひんやりして気持ち良かった。だんだん頭がぼうっとしてきて、瞼が重たくなってきた。
知らず知らず、ユリウスはクラウスの肩に凭れて、うとうとしていた。
クラウスは、ユリウスの頭をタオルごと抱えながら無意識に撫でていた。なんだか急にそうしてあげたくなったのだ。
マラソンの喧騒が遠くに聞こえる。石畳を走る足音、沿道から呼びたてる声。子供たちのはしゃぐ声。
柔らかな木漏れ日が二人の足元だけを照らしている。
Süß(甘い)度★★
ーそれからカーニバルが過ぎて、彼女が退学になってから、一年後の出来事ー
二月某日、レーゲンスブルク・スイーツマラソン開催日。
今年は、ピアノ科6年はイザーク、ヴァイオリン科8年はクラウスが選ばれた。
「まったく、なんで二年連続で走らなきゃならねえんだよ。やってらンねーぜ」
例年に違わず甘い匂いが充満するスタート地点で、クラウスがぶうぶう文句を言う。
「仕方ないじゃないですか。あなたは去年、途中棄権したんですから」
イザークが言った。
要するに、ペナルティである。
「しょうがねえだろうが! 倒れたユリウスを介抱してたんだからよ」
「でも、あなたなら、十分遅れを挽回できた筈ですよね?」
「何だよ、俺がわざとバックレたって言いたいのか? 具合の悪いあいつを置き去りにできるかよ」
──ま、半分は当たってるけどな。
「そうですね……、すみません」
その時である。
「クラウスーーっ!」
むさ苦しい集団を吹き抜ける清涼な風のような天使のソプラノに、そこにいる全員が振り向いた。当然呼ばれた本人も。
「頑張ってねー! 橋のところで待ってるから!」
真っ白なファージャケットを纏ったユリウスが、ぶんぶんと両手を振っている。まるで毛を刈る前の羊だ。
「おう!」
大きく手を振り返す男の影に隠れて、イザークが小さく手を振った。
「イザークも頑張ってー!」
クラウスがぎろりと睨みつけてくる。聖者は、とぼけて目を逸らした。
「位置について、よーい……」
ーバァァーン!!!
そして十数分後。
甘い甘い甘い甘い……あああぁぁ……、
「ダメだ……気持ち悪ィ……」
息が詰まるほどの、甘ったるい香りの洪水がクラウスの躰に次から次へと襲いかかる。
──そもそも並べ過ぎだろ……いったい誰があんなに食うんだよぉ。あっ、あいつ片っ端から食ってやがる。馬鹿じゃねーか……ってイザークかよ! あの野郎、隠れ甘党男子か?
やっとの思いでドナウの橋まで辿り着くクラウス。もうフラフラである。
「クラウス!」
正に天使の声である。クラウスの躰が吸い寄せられるようにそちらへ向かう。
「どうしたの? 顔が真っ青だよ!」
「よお……、いつも可愛いなぁユリウス……」
「もう、こんな時に何言ってるの! 大丈夫?」
「甘ったるい匂いが内臓まで充満して……気持ち悪い……」
クラウスは、ユリウスに半分覆い被さるように倒れかかった。
「きゃ! 下の木陰で休んだ方がいいよ。ね?」
「おぅ……なるべく甘い匂いから遠ざけてくれ……」
「わかった、ボクに摑まって!」
「無理だよ、倒れちまう」
「じゃ、じゃあ、こっちの手摺りを持って」
反対側でユリウスがクラウスの腕を取り、何とか階段の下まで下りた。クラウスが木陰でへたり込む。
ユリウスがバッグから水筒を取り出した。
「クラウス、お水飲む?」
「お前、用意がいいな」
ユリウスはコップに水を注いで差し出した。
「はい、持てる?」
「口移しがいいなぁ」
「ば、ばか! いいから早く飲んでっ」
ユリウスは真っ赤になって、彼の手にコップを押しつける。
──ちぇ……けち。
クラウスは水を一気に飲み干した。躰から甘い匂いが押し流され、少しだけすっきりする。
「あーあ、参ったぜ」
クラウスが伸びをすると、ユリウスが隣に腰を下ろした。ローヒールのショートブーツを爪先まできちんと揃えて。履き口のフェイクファーが暖かそうだ。
「ねえ、寄りかかっていいよ」
「……ダンケ」
当然、恋人だから遠慮はしない。寄りかかるだけなんて、中途半端なこともしない。
「く、クラウス!?」
ひざまくら♡
「……ここでもいいか?」
聞いただけ。動く気ゼロ。ユリウスがくすりと笑った。
「うん……」
ベルベット生地のスカートに顔が埋もれる。
「お前、尻が冷たいんじゃねえか?」
「大丈夫だよ」
「そっか……」
細い指が亜麻色の髪を繰り返し梳いている。
至福の時間。
甘ったるい匂いは何処かへ飛んだ。代わりに違う種類の甘い香りに酔いそうだった。
左手は膝の上。目線の先はスカートに隠れた膝小僧。
躰が180度回転する。
「クラウス?」
両腕が細い腰に回されて、顔がユリウスのお腹に埋もれた。
皮下脂肪ゼロの筈なのに柔らかくて温かい。
むくむくと彼の頭をボンノーが支配する。右脳と左脳が大乱闘。
「お前、ほっそいな。こんなもこもこなの着てるのに俺の腕が二周するぞ」
「えっ? そう?」
「なあ、去年のこと覚えてるか?」
「どうしたの? 急に。覚えてるよ、勿論」
──忘れられるわけないじゃない……。
タオルの冷たさと手のひらの暖かさが相まった心地良さ。
彼らしいぶっきらぼうな優しさが嬉しかった……。
「その時のお礼、貰っていいか?」
「え?」
ユリウスが下を向くと、金糸の髪が垂れ落ちた。柔らかな毛先がクラウスの耳を擽る。
その髪に手が伸びて小さな頭を抱え込む。
「クラ……、ん……」
スイーツよりもスウィートで蕩けるものに唇が満たされる。
それから彼は、ふわふわの羊を草地の上に押し倒した。
マラソンの喧騒は聞こえない。
勾玉が触れ合うほどの──神秘的な刹那。
二月にしては暖かな木漏れ日が、ゆらゆらと二人の躰を照らしている。
Süß(甘い)度★★★★★∞
ーそれから二年後の初夏ー
ユリウスの学院生活も残り僅か、八月にはクラウスとパリへ出発する。
と或る休日、二人がホテルを出ると、街中の至るところを逃れようのない甘ったるい匂いが支配していた。
「ちょっと待て! まさか今日、スイーツマラソンなのか?」
「わあ、ほんとだぁ。懐かしいねえ」
「前は二月だったよな?」
「そう言えば、ケーキ屋さんとかに貼り紙がしてあったかも」
レーゲンスブルク・スイーツマラソンは、今年から気候の良い六月に変わったのだ。勿論パリにいるクラウスが知っている筈もなく、彼は己の運の悪さを呪った。
「おい、戻ろう」
「なんで? 今日はカフェでランチして、その後ドナウに行くって約束したじゃない」
頑として譲らないユリウスに腕を引かれ、渋々カフェまでやってきたが、
「待て待て! この店、マラソンコースの真ん前じゃねえか。あっ、しかも向かいはケーキ屋だ。うわっ沿道にあんなに並べてやがる。無理だ無理、食欲なんか湧かねえよ」
とクラウスは文句が止まらない。
「しょうがないなあ。じゃあテイクアウトしてドナウで食べよう。それならいいでしょ?」
サンドイッチとコーヒーとカフェオレを買って、甘い洪水を避けるようにドナウの川辺に辿り着く。
緑の香りと水の匂い。漸く、クラウスは深呼吸ができた。
いつもの木陰に腰を下ろし、ユリウスがサンドイッチを袋から取り出す。
「クラウス、食べられる?」
「ああ、此処なら大丈夫だ。腹も減ってきたぞ」
「もう、調子いいんだから。はい、どうぞ」
「お、ダンケ」
クラウスはサンドイッチを二口で飲み込み、コーヒーで流し込んだ。暑くもなく寒くもない気持ちの良い気候と、川からの微風が眠気を誘う。
彼は、彼だけが使用できるちょうど良い枕を見つけ、頭をのせた。
「ちょっと! まだカップを持ってるのに危ないじゃない」
「もうそんなに入ってないだろ?」
「そうだけど……」
ユリウスは残りのカフェオレを飲み干した。
「はい、飲んだよ。顔にかかったら大変だもん」
「悪い。急かしたな」
「クラウスったら子供みたい」
「いいじゃねぇか、別に……」
横を向くと、スカートの裾から覗く白い膝が誘っている。
この控えめな誘惑は人間だけに見られる性状だろう、と彼は勝手に解釈した。
ユリウスは亜麻色の髪を優しく撫でている。その隙を狙って、クラウスは膝に手を伸ばし、薄い生地を手繰り寄せた。
「あっ! だめ!」
「何もしてないぞ」
「嘘! 今、スカートに……きゃっ」
鮮緑の絨毯に金髪の天使が横たわる。
碧の瞳が瞬いて、烟る睫毛がゆっくり閉じた。その絹糸に口づけて、次にカフェオレの香りに蓋をした。
白日夢に溺れる恋人たち……。
「ぁ」
甘い吐息が空気に揺らぐ。
「っん……」
マラソンの喧騒は現実の彼方へ。
初々しい若葉の木漏れ日の下で、柔肌が曝され──。
「だ、駄目だよ……こんなところで」
ユリウスはブラウスを掻き合わせる。
「うん、帰ろう」
彼女は返事をしなかった。
返事の代わりに、ゆるゆると躰を起こす。
クラウスは先に立ち上がり、転がっていたコーヒーの残骸を拾い上げ、ユリウスの手を引いて階段へ向かう。速足で急くように。
彼だけがその先へ行けるのだ。
あれほど強固だった彼女の鎧を解いた唯一人の男。
「ほんとに帰るの? まだこんなに明るいのに」
「お前を抱くのに、昼も夜も関係ない」
スカートと一緒に鼓動が跳ねた。
「……ばか」
「お前が悪い。そんな甘い匂いをぷんぷんさせて」
彼の足は益々速くなっていく。
「それはスイーツマラソンの匂いだと思うんだけど」
「ばーか。あんな殺人的な甘さと、お前の匂いを一緒にすンな」
「何処が違うの?」
「それは、帰ってから教えてやるよ」
喋っている時間すら勿体ない、とクラウスは思っていた。
(彼が食べちゃったのはスイーツではなく天使だという話)
『Süß(甘い)度★★』
時期的には『漣☆PART2』の少し前くらいの話。
スイーツマラソンとは