彼女は水沫のなかに
──クラウス……、クラウス……。クラウ……ス………
誰かが自分を呼んでいる。
青年は瞼を開けた。舟の中だった。
水の上にポツンと浮かぶ小さな舟。此処は海なのか……?
空には星はひとつも無く、月明かりだけがぼんやりと水面を照らしている。
不意に、舟がぐらりと揺れた。
「わっ!!」
慌てて舟の縁を摑む。瞬間、水の中に朦朧と何かの影が過った。
「何──だ?」
それはゆっくりと浮き近づき、揺らめきながら徐々に輪郭を露にし──。
──魚……だろうか?
大きい。思わず全身が強張る。
もしも鮫や鯨だったら、こんな舟などひとたまりもないだろう。
ーチャプン……。
拍子抜けするほど小さな水音に振り返ると、
「え……?」
──ユリウ……ス?
舟の縁に摑まる青白い腕。ぐっしょりと濡れた髪。
顔や手からも水滴が滴り落ちている。
──まさか、ずっと水の中に……?
「おい! お前、何してるんだ? 早く上がってこい!」
『クラウス……、こっちに来て……手を……』
「え? あ、あぁ」
咄嗟に身を乗り出す。反動で舟が僅かに傾いた。
『ねえ、ボクと帰ろう、レーゲンスブルクへ……』
「レーゲンスブルク? ここは海だぞ。え? 海じゃない……のか?」
『ここは、ライン川。あの水路を辿るとその先はドナウ川……。レーゲンスブルクまで途切れることなく、ずうっと繋がっているんだよ……』
言葉を口遊むように彼女が答える。
「そう……なのか?」
『お願い、手を貸して。此処からボクを引き上げて。でないと泡になっちゃう……』
「は? どうしてお前が泡になるんだ? 人魚じゃあるまいし……」
ーポチャ……ン……。
その時、セルリアンブルーの尾ひれが跳ねた。青年は自分の眼を疑った。
──今のは何だ?
「まさか……」
彼はもう一度、眼を凝らして水面を覗き込む。彼女の腰の──その先を。
──脚が……無い……!
彼女の下半身は、鱗に覆われた魚になってゆらゆらと揺れていた。
──人魚……?
「お前どうしたんだ!? なんで人魚になんかなっちまったんだ!?」
必死に問いかけるが、彼女は答えない。碧色の目を細め、うっすらと微笑みながら尚も漂い続けている。
──ローレライ……?
ライン川に取り憑く伝説の精霊。
あの瞳は見紛う筈もない、ユリウスだ。だけど……、あの姿は……。
──俺は、惑わされてるのか?
『クラウス、早く……ボクが泡になってもいいの? あぁ……もう……』
何の前触れも無しに、突如、川がうねるように流れを速める。
ガクン……! と舟が傾いて、彼女が一瞬、視界から消えた。
「ユリウス! 駄目だ、手を出せ!!」
青年は手を伸ばす。
例え瞞されているとしても、見捨てることは出来なかった。人魚という姿以外はユリウスそのものだったから。
水面から、白いか細い手が、震えながら伸びてきた。
そして、彼の手首を弱々しく摑んだ……その瞬間、
「うっ、わあっ!!」
何処にそんな力があったのか。
突然、青年は水の中へ引き摺り込まれた。
ーバシャンッッ!!!
二つの躰が、ゆっくりと水の底に沈んでいく。月影の届かないところまで……。
彼女の足首までもある長い金色の髪だけが、天に昇っていくように、最後まで揺蕩っていた。
繋がれた手と手は、やがて一本の赤い糸になる。どんな鋭い刃でも断ち切れない強靭な糸……。
不思議なことに、息はいつまでも途切れない。
漆黒の深海で、金糸の髪と赤い糸だけが鮮明に光を放っていた。
『クラウス……、一緒に帰ろう……。レーゲンスブルクへ………』
「ユリウス……、ユリ……」
水沫は眩惑のなかに
六月初旬──
クラウスは、パリ・東駅の高速列車出発ホームにいた。足元には少し大きめの旅行鞄。
遠くには、初夏の爽やかな青空が広がる。
三月にユリウスを見送った時は、ホームの空気もひんやりと冷たかった。
発車直前まで抱き締めていた彼女の躰だけは、湯たんぽみたいにほんわりと温かかったけれど……。
「乗り損なうから早く入れ」と口では言っておきながら、本当は離したくなかった。
もう三ヶ月も、ユリウスに逢っていない。
ユリウスには黙っていたが、本当は、最低でも月に一度は逢いに行くつもりでいた。
ところが、避けられない授業や用事が予想外に立て込んで、結局一度も実現できなかった。
不機嫌であることが自分でも分かったし、それを友人に指摘されたこともあった。
告げずにおいて良かったと、心底思った。
怒られるならまだいい。
あいつの泣き顔だけは、いつまで経っても慣れない。辛かった日の涙を思い出すからだろうか?
抱き締めることしか能がない自分が情けない。
──あの夢を見たのは、何日前だったろう?
呼ばれている……と思った。
これは正夢だと……。
それとも、都合のいい解釈だろうか?
あれでもういても立ってもいられなくなったのだ。
超特急で用事を片付け、後回しに出来るものは放り投げ、押し付けられるものは他人に押し付け──、
『いいから早く行ってやれよ』
背中を押してくれた友人の顔が頭に浮かぶ。
漏れなく付いてくる負けず嫌いの膨れっ面も……。思わず、笑いを嚙み殺す。
──まったく、笑ってりゃ美人なのによ。
列車がホームに入ってきた。
眩惑は夕虹のなかに
「ユリウス、今ちょっといいかな? 話があるんだ」
そう言うや否や、フランツはユリウスの手を引いて舞台袖から外に出た。
「え? あの……、フランツ?」
半分透けたような人魚の衣装で連れ出され、ユリウスは困惑した。当然、フランツも王子のままである。
「ねえ、待って! こんな格好なのに……」
「すぐに済むから。みんなに聞かれたくないんだ」
ユリウスの手首を摑む力が強くなる。足もどんどん速くなっていった。
「フランツ、痛いよ」
衣装の尾びれの部分は裾がすぼまったドレスのようになっていて、歩き難いことこの上ない。ユリウスは半ば引き摺られるような恰好になっていく。
「速いってば! 転んじゃう……」
ユリウスの声を無視して、フランツはずんずん歩いていく。
その時である。
「うっ!!」
「きゃっ!」
突然、呻くような声とともに、フランツの足が止まった。
その弾みで、つんのめりそうになったユリウスの躰を、背後から誰かが抱き留める。
「え……!?」
「痛ぅッ!!」
フランツが大きな声をあげた。腕を捻り上げられているのが見える。
「おい、王子なのに乱暴すぎやしねえか? お姫さまはもっと大切に扱わないとな」
「だ、誰だ? 手を離せ……」
──この声……!
ユリウスが顔を上げる。
その動きは刹那よりも速かった。
「クラウス!?」
「よお、──わわわっ!」
ぶつかるように抱きついてきた躰を、彼は慌てて受け止める。
一瞬で──全身が甘い懐かしい香りに包まれた。
広い背中に細い腕が目いっぱい絡みつく。
心臓の鼓動が、とくんとくんとシャツ越しに伝わってくる。
「……っ……」
「ん……何だ?」
ユリウスは感極まり、クラウスの名前を呼びたいのに声にならない。
「逢い……か……っ」
「うん……、俺も逢いたかったよ」
そこへ、ユリウスを捜しに来たリーナが現れた。
「クラウス!? え、どうして……?」
リーナは、クラウスと、その躰に貼り付いている友人を見て驚いた。
その傍らで、世界の終わりのような顔をして呆然と立ち尽くしている御伽の国の王子にも……。
──以前、これと同じような光景を何処かで見た気がするわ……。
「悪い。こいつを着替えさせたいんだけど……」
クラウスが、リーナに気づいて声をかけた。
「や……、離れたくない……」
ユリウスはまるで駄々っ子のように、顔を埋めたまま半泣きで首を振る。
クラウスは、嬉しさと当惑が入り混じった顔で、これまた子供を諭すように話しかけた。
「ユリウス、その恰好じゃ連れて帰りたくても帰れない。そんな姿はここの敷地内だけにしてくれ」
突如、仏の顔が般若に変わる。
「本当は舞台の上限定にしてほしかったんだけどな」
小声ながらも、どすを利かせたバリトンと殺意バリバリの双眸が、魂が抜けた状態のフランツに容赦なく襲いかかる。
ービクンッ!!!
蛇に睨まれた蛙が跳び上がった。
「……分かった。その代わりクラウスも一緒に来て。ドアの外で待ってて」
自分の頭上で、そんな威嚇射撃が行われているとはつゆ知らず、ユリウスが漸く顔を上げる。
「だけどさ、俺、部外者なのに入っていいのか?」
「いいよねッ? リーナ」
有無を言わさず、という口調で人魚が言った。
「えっ? も、勿論よ。着替えの部屋は空いているレッスン室だから大丈夫よ」
──まぁ、仕方ないわね……。
とリーナは思う。
彼女を従わせることの出来るただ一人の人物ですら、今はこんな状態なのだから。
夕虹は彼のなかに
「そこにいてよ。絶対動かないでね?」
「分かったから早く行って来い」
着替えを持ったユリウスが慌ただしく部屋の中に入っていった。バタンッ!! と勢いよくドアが閉まる。
「おい、もっと静かに閉めろって……まったく」
「あの……クラウス、差し出がましいようだけど、どうして一緒に入らないの? 彼女が離れたくないって言ってるのに……」
今更よね? というように、リーナが訊いた。
「ああ、あいつさ、着替える時だけは俺に見られるの嫌がるんだよ。なんでかね?」
クラウスが肩を竦めて答えた。
「あらぁ可愛い。良いじゃない。そういう恥じらいって大事よぅ。どんなに深い関係になってもね……うふふ」
「アニカ!? い、いつの間に?」
そのサイズは合っているのか? と問い質したくなるくらいボディ・コンシャスな制服を身に纏い、アニカがゴージャスに現れた。(彼女曰く、私の成長に制服の採寸が追いつかないのよ、だそうだ)
「あーら、私を見縊らないで。イイ男の匂いを嗅ぎつけるのは誰にも負けないンだから。はーいクラウス、お久しぶりっ」
「よう、相変わらずだな、あんたも」
「あなた、ますます男前になっちゃて。やっぱり諦めるの早まったかしら……。ねえぇ、たまには違う種類の果実も味わってみたいと思わない?」
うっふん、と得意のシナを作るアニカ。
「悪いが、遠慮しとくよ」
即答するヴァイオリニスト。
瓜売りが瓜売りに来て瓜売れず瓜売り帰る瓜売りの声──。
ーバタン!!
「クラウス、着替えたっ!」
人魚が人間に戻って飛び出してきた。
「お前、早っ……て、おい……、何だよそれは……」
「え? 何処か変?」
「スカートのファスナーが前にきてる、襟が折れ曲がってる、ソックスが捻れてる、髪が絡まって……あーあ、まったく……」
着替えの情景がリーナとアニカの頭に浮かぶ。
指摘した順番に直し始めるクラウスの甲斐甲斐しい姿に、ユリウスは「むぅ……」と膨れっ面になり、周囲の面々は「うぷぷ……」と笑いを堪えている。
「だって……、早く着替えてクラウスと帰りたかった……」
「分かった分かった。お前さぁリボンくらい結べよな」
クラウスは襟元で垂れ下がったままのリボンを器用な手つきで結ぶ。
「え、でも……」
「何?」
「どうせ後で、クラウスが解くでしょう……?」
ユリウスが小首を傾げて上目遣いをする。
「お、おま……いったいどこでそんな台詞覚えた?」
「何言ってるの? クラウスがいつも言ってるんじゃない。どうせすぐに脱がすんだから……」
「わあっ!!!」
クラウスは慌てて少女の口を塞ぐ。
「むぐぐ……」
が、時既に遅し……、澄んだ天使のソプラノは、ここぞとばかりに天井まで響き渡った。
穴があったら入りたい……。
仔猫のようにじたばた暴れる恋人を押さえつけながら、青年は天を仰いだ。
彼は彼女のなかに
ホテルの部屋のドアを閉めた瞬間、クラウスは、ユリウスを抱き寄せて唇を奪った。
金の髪に指を差し入れ、動かぬように頭を支え、一時も逃すまいと角度を変えながら、極上の蜜を味わい尽くす。
「……ん………ふぅ……」
彼女の口から零れる甘やかな声が、潤んだ碧色の瞳が、自制の糸を緩めていく。
広い背中にしがみつく細い手は今にも滑り落ちそうだった。
そうなる前に、青年は華奢な躰を抱き上げて、シーツの海に一緒に沈んだ。
果たして──ユリウスの前言通り、襟のリボンは解かれた。
真っ白な鍵盤の上を、彼の指が躍る。ときに優しく、ときに激しく……。
霧雨のようなキスを降らせながら……。
稀泣の音は時を置かずに歌になり、三ヶ月という長い長い空白は、瞬く間に塗り潰された。
「泣いてるのか? ユリウス」
「え……?」
「目が潤んでる」
「……意地悪、っん……」
あの夢の続きのように、ユリウスの生身の声にクラウスは溺れて沈む。
「……ぁ……クラウス……、ク……ラウス……」
そうして、やがて、彼女の泡で彼は弾けた。
「お前さ、夢で俺を呼んだだろ?」
「なんの……こと?」
クラウスは、ユリウスの髪を梳いては撫で、梳いては撫でを繰り返す。大切なものを愛でるように。
ユリウスは、ずっと感じたかった温かな存在に身を委ねている。
「いや……、何でもない。そうだ、お前の人魚姫、綺麗だったよ」
「え!? 観てたの? いつから? やだっ……」
ユリウスが顔を赤くして大きな声をあげた。
「なんで俺に見られるのが嫌なんだよ?」
「だって……、恥ずかしいじゃない。あんな恰好……」
たった今、もっと恥ずかしい姿態で俺を翻弄した癖に、と口走りそうになり慌てて止める。
「よく似合ってたよ。最初は、衣装係に殴り込もうかと思ったけどな」
「もう……、やめてよ、本番前に」
「あと、幕引き係を蹴り倒して幕を下ろそうとも考えた」
「ばか……」
彼ならやりかねないと思い、ユリウスはくすくす笑う。
「本当に綺麗だった。本物の人魚のようで……、夢を見てるんじゃないかと、舞台から目が離せなくて……」
クラウスは薄紅色の頬に優しく手を滑らせる。
「そしたら見ちまったんだよ。幕が下りる寸前に、あの野郎がお前の手を引っ張っていくところをな。まったく油断も隙もあったもんじゃねえ」
一発殴っておけば良かったぜ、とクラウスは拳を握りしめた。
「そう言えば、フランツの話って何だったんだろ? 聞きそびれちゃった」
「は?」クラウスは、ぽかんと口を開ける。
「……お前、本気で言ってンのか?」
「何が?」
「男が二人きりで話があるって言ったら、告白しかねえだろうがっ」
「えっ!? そうなの?」
クラウスは頭を抱えた。
──こいつの恋愛レベルは未だ小学生以下だ。
「あっぶねぇ……、危うく劇中の王子に掻っ攫われるところだったぜ」
「クラウスったら……」
碧玉の瞳が鳶色の瞳を見つめ、柔らかく微笑む。
「泡になる前に、ボクを救ってくれたのはあなたでしょう……?」
「ユリウス……」
「ほら、ここに触れてみて」
ユリウスが、ほっそりとした腰にクラウスの片手を導いた。
セルリアンブルーの尾ひれが跳ねて、シーツの海が波打った。
熱を帯びた掌が、鱗に覆われた躰を滑る。
エンジェルブルーの片鱗が、一枚、また一枚と剥がれ落ち、
そのうちの十枚が彼女の足の爪になった。
冷え切った皮膚は、愛情という体温を授かって、
白い頬を薔薇色に、指先を桜色に染めていく。
「ありがとう、王子さま。あなたのお陰でボクは人間になれました……」
人魚姫は王子の頬に両手を添えて、形の良い唇をゆるゆると重ね合わせる。
掠れたバリトンが囁いた。
「お前の唇は、あったかいよ……」
ユリウスの人魚のイメージはこちら
無垢なヒロインが健気で可愛い
※章タイトルは、『封印再度(森博嗣)』の目次の形式を参考にさせていただきました。