疲れていたけど欲しかった。

その日は朝からバタバタしていた。
いつもはどちらかが起こす係になるのに、二人揃って寝坊したのだ。
選りに選って、予定のぎっしり詰まった火曜日に。
シャツを引っ掛けただけの状態で、
「もうコーヒーだけでいい」
と俺が言うと、
「駄目っ、食べないと力が出ないから」
とユリウスは、パジャマのまま目玉焼きのせトーストを差し出した。
腹は減っているのでやっぱり美味い。

なんとなく──パジャマ姿の彼女を目で追う。
視界の前を右へ左へ彷徨うろつくのだから仕方がない。
ふと、無造作に捲った袖口へ、パンの欠片が零れ落ちるのが見えた。
気がつかないのか、お構い無しに食べ続けているユリウスをぼうっと眺める。代わり映えのしない朝の景色を。
──意外と早食いなんだよな。
少食のくせに。
「クラウス、口が止まってるよ」
我に返った。
見飽きてるだろ、それどころじゃねーだろ、と自分に突っ込みを入れて、わしわしとパンにかぶりつき、コーヒーで流し込んだ。欠片の行方は見失ってしまった。

俺が彼女のファスナーを上げて、彼女が俺のタイを結ぶ。
鏡の前で彼女が口紅を差す間に、俺は、ハーフアップにした金の髪に、海の色のスワロフスキーが並んだバレッタを留める。誕生日に、ドレスに合わせてプレゼントした物だ。青色の商品タグには、白い文字で『天使の落とし物』と記してあった。
「ねぇ、コート要るかな?」
「俺は要らないけど、お前は薄着だし、夜は冷えるから着た方が良い」
反論の余地も無いね、とユリウスは、クローゼットからペールグリーンのスプリングコートを取り出した。
それから、そうだ夜用のルージュも入れとかなくちゃ──とオレンジ寄りの朱赤あかい口紅を選んでバッグに放り込む。


「今、塗ってるのと何処が違うんだ?」
「これはピーチピンク、全然違うでしょ」

ユリウスが呆れ顔で唇を突き出した。
思わず、条件反射で腰を抱き、唇を──。
「だ、駄目! 口紅付けてコンマスやるつもり?」
「ちぇっ、解ってるよ」
そう──時間が無いのだった。
俺はヴァイオリンケースを抱えて、鍵を摑んだ。
「行けるか?」
「うん」

今日は、午前の野外コンサートに始まって、午後から夜と三本掛け持ちのハードスケジュールである。
午前11時からは、フランス国立公文書館の中庭での野外コンサート。
曲は、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲コンチェルト:第2番』。
これを二台のピアノと、コンセルヴァトワールの学生オーケストラで演奏する。歴史的建造物とはいえ、何の装備も無いだだっ広い中庭に、弦楽オーケストラとピアノが二台、所狭しと設置される。贅沢と言えば贅沢だ。

 



俺はOB兼コンサートマスター、ユリウスはOG兼第一ピアノ。
そして、第二ピアノを演奏するのは、なんと友情出演と称したイザーク・ヴァイスハイトである。一時間にも満たないこの舞台の為だけに、わざわざドイツから足を運んで来やがった。しかも終演後はとんぼ返りときた。
相変わらず、この男のユリウスへの崇拝ぶりときたら──頭が下がるを通り越して呆れ返る。こいつだって決して暇ではないはずだ。
そんな慌ただしいなか、前日の最終練習で二人は、ピアノだけで一度、オーケストラとは二度合わせただけで完璧に仕上げた。

予想を超えた出来栄えに、
「お前ら、演奏したことあるのかよ?」
と俺が疑いの眼差しを向けると、
「クラウスがコンセルヴァトワールの試験で居ない時に、気晴らしにってイザークが誘ってくれて、何度か弾いたからね。ストレス解消には持ってこいの曲でしょう?」
とユリウスが涼しい顔で返事を返した。ぐうの音も出ない。

勿論、コンサートは大盛況の大成功。
澄み渡る晴天の下、ロシア正教の鐘の音と云われる──荘厳なピアノ独奏から始まる第一楽章から、壮大で華々しい第三楽章まで、二人のピアニストが操る多様多彩な超絶技巧と、オーケストラの音の波が絡み合い、大空にとどろき渡った。
アンコールは、二名のピアニストだけによる、モーツァルト『2台のピアノのためのソナタ』。
これもオレの居ぬ間に、思う存分、二人で弾きまくっていたらしい。あの息の合った演奏っぷりときたら……。こればっかりはただ傍観するしかない俺は、衆目環視しゅうもくかんしの中で、平常心を保とうと努力はした。
したけれども──。
俺のストラドの指板しばんは今にも折れかけ、瀕死の状態だっただろう。
ったく──かっこわりぃったらない。

🎻 🎻 🎻

「本当にもう帰っちゃうの? イザーク」
もう一泊していけばいいのに、とユリウスが言った。
「ごめん、夜までにはレーゲンスブルクに着きたいんだ。明日、ウィーンで公演があるんだよ」
「忙しいやつだな、お前も」
他人事ひとごとながら強行軍だと俺も思う。
「この後、まだ二本も控えている貴方たちに言われたくないですよ」

はにかんだような表情で聖者が笑った。前回会った時、耳が隠れるくらいまで伸びていた黒髪は短く切り揃えられていた。剥き出しの耳裏を掻く骨ばった指を見た後に、ユリウスの細い指に目を向ける。
倍ほどの差があるにも拘わらず、遜色なく鍵盤を躍らせ、一瞬で観客を彼女の世界に惹き込んだ。真後ろに居た俺は──ストラディヴァリを弾きながら──普段の姿からは想像もつかない彼女の底力に震えが走った。
俺の目の前で、華奢な躰は椅子から跳ね──力強く指は歌い。
これでもかと連打されるフィナーレを迎えた時、躰ごと宙に砕け散ってしまうのではと思うほど──。

「俺らだって、こんなハードな日は滅多に無いさ」
俺たちはぎりぎりまで会話を交わし、名残惜しそうにユリウスは、
「今日は本当にありがとう」
と言って、元ゼバスの同級生にハグをした。
そんな薄着でくっつくな、と俺は叫びたいのをわなわなわな……と我慢する。
実際のところ、いつまでも成長していないのは自分ではないかと情けなくなる。
イザークは直ぐさま察して、
「そろそろ列車の時間だから」
とユリウスから躰を離した。非常に良い後輩だ。
だから、今回は大目に見といてやる。

時間は──駆け足のように過ぎていく。

 

 

 

 

疲れているのは解っていた。

夜のサント・シャペル教会では、満席の喝采がいつまでも鳴り止まず、アンコールは三回。少しハイだったかもしれない。
天上までそびえるほど崇高すうこうきらめくステンドグラスと、スポットライトに交差するお前のべにに酔ったのか。
まるでサロメの接吻キスのような血の色に──。
目を見開いた専属ピアニストが選んだのは、あの曲だった。
俺たちの青春の縮図。変節を繰り返しても普遍だったもの。
──要するに、想い出の曲である。
 

「クラウスってば、びっくりしたぁ。三回目やろうとするんだもん」
終演後、待たせてあったタクシーの後部座席に、二人並んで腰を沈めた。
狭い窓枠から天を仰ぐ。
夜なのに、空が白い──。まるで何処かの国の白夜のように。
その真上に、紅い月が浮かんでいる。
「ん、悪かったな。なんだか、ちょっと気分が良かったんだ」
「ふぅん。でも、今年一番の艶やかな『ロマンス』だったよ」

素敵だった──と、うっとりとした表情でユリウスは、俺の肩越しに、まるくて紅い天体を見上げた。
エロティックなのはお前の方だ。
未だ興奮冷めやらぬ紅潮した頬に酔い痴れて、ドライバに聴こえないように、
「今夜欲しい」
と耳打ちする。
ユリウスは真っ赤になって、
「こ、こんなところで言わないでよ……」
と俺の胸に顔を隠した。
金色の髪と白いレースの襟から覗く、絹地よりも白い妻のうなじ

シートベルトが邪魔だった。

 

 

 

 

疲れていたから、欲しかったのか。
疲れた時に、甘いものが欲しくなるみたいに。

玄関のドアを閉めるが否や、後ろから抱き竦めた。
「ね……、お、お風呂……」
今日はいっぱい汗をかいたからと──腕の中で妻が藻掻く。
「解ってる」
バスルームで──バスタブのなかで、たっぷりのキスをした。けれど。
キスだけでめておく、彼女がのぼせてしまうから。

桃色に火照った頬。
こんな時、いつも初めてのパリの夜がまぶたに浮かぶ。あれから何年経っただろうか。けれどあまねく憶えている。
不思議なくらい──まるで変わっていない躰とかたちと滑らかさ。
丁寧に水滴を拭い、拭いたそばから唇を滑らせる。
バスローブは要らないかも……、とユリウスがぽつりと言った。切れ切れの吐息が湯気に溶ける。
「疲れているなら──めようか」
意地悪だね、と返された。
「嘘つき」
ペテン師、どうせ口だけの癖に……の途中で唇を塞ぐ。

疲れているから、なお一層欲しいと思う。

以前ユリウスを置いて、単身演奏旅行に出掛けた時、帰宅した直後シャワーも浴びず、貪るように彼女を抱いた。
躰はくたくただった筈なのに。
まるでもうひとりの自分がるみたいに、指先も舌も唇も、すべての五感が鋭敏に研ぎ澄まされて。
しかし──たしかにそれは己自身の衝動だった。

一口ひとくち含んだだけで、全身が熱くなる。
砂糖菓子のような紅色あかいろを貪欲に執拗に、め尽くす。
その砂糖菓子の下に潜んだ顔を、一刻も早く暴きたくて。
その最中に。
ああ……、また知らない顔だと息を呑む。
剥がしても剥がしても──、一秒毎に翻弄される。

疲れているのに、時間をかけるのは何故だろう。
もううに、お前はしとどに濡れているのに。

口づけて、
触れ合って、
繋がって、
重なって、
融け合って、
また口づけて、

真っ白な肉体からだに──桜ではない花弁が散り舞う。
リピートとダ・カーポを繰り返し、
オクターヴの掠れ声を聴きながら、

その果敢はかなげな姿を抱き締めて、絶え間なく──抱き締めて。
終止符は、消え入るようなフェルマータ。


そうして──。
二人で抜け殻になって、泥のように眠りに落ちた。

明日の朝、起こす係はどちらだろう。
目覚ましは掛けただろうか。
スケジュールは……。
 

 

 

 

 

海の色のバレッタ

 

 

「天使の、落とし物?」
誕生日の朝、それを受け取ったユリウスは、「……海の色だ」と呟いた後、おもむろにピアノに座り目を瞑った。
数刻後、ゆっくりと目を開けて鍵盤に手をのせると、初めて聴くメロディを奏で始めた。
そして──、

あなたと過ごす誕生日が過ぎるたび
宝石箱の空間すきまが埋まっていく

七つの海を 一粒ずつ掬って
そそっかしい天使が 地球に零す
これが今年のプレゼント

誕生日が過ぎる毎に
新しい愛を あなたがくれる
去年よりも 昨日よりも
大きな愛を ボクにくれる

恋が愛に変わったのは 何個目からだったろう
愛が恋を越えたのは 何個目からだったろう

そろそろ蓋が閉まらない
新しい宝石箱を 買わなくちゃ
でもきっとすぐに いっぱいになる
いつか 両手いっぱいの宝石箱を


「今度はボクが……、あなたにあげる」


──と即興で歌い上げた。

「素直にありがとうって言ったらどうだ」
ユリウスはにっこり笑って立ち上がり、後ろを向いた。
「ねぇ、付けて」
その日から、バレッタを留めるのは俺の役目になった。
それが二年前からだったか、三年前からだったか。──うろ覚えだけれど。

 

「幸せだな……」
独り言のような声。
その言葉だけで、何も要らない。
そうやって無邪気に笑うお前を眺めているだけでいい。
貴方のお陰だね──とユリウスがこちらを向いた。
「なんでだよ」
「ボクを長い眠りから起こしてくれたのはクラウスだもの。貴方が居たから、ボクは目醒めることが出来たんだよ」
そうして、ボクの夢は、現実うつつになったの──。

 

あのなぁ……と俺はユリウスの顔をじっと見つめる。
「感謝の気持ちは有り難いが、あれから何年経っていると思ってるんだ。もうとっくに、それはお前自身のものになってるよ」
「そう……かな?」
ユリウスは小首を傾げてにっこりと微笑んだ。
ほら、その顔が好きなんだと、もう一度俺は言う。
恥ずかしいからもうめて──と遂に彼女が降参した。
両手で顔を覆い、もう一生分貰ったからと首を振る。耳朶まで真っ赤にして。
誕生日だからって、酔っているわけではない。

 

これは夢じゃない。あまつさえ、夢の続きでもない。
醒めない現実うつつなのだ。
現実だからこそ。
善悪の境界も、真贋しんがんの基準も、正否の壁も、
日々移ろい揺らいでいくけれど。
お前を好きだと云うことは──天地が引っ繰り返っても──未来永劫変遷かわらない。

 

「ほんとぅ?」
「てめっ、疑うのかよ?」
くすくすと──天使が笑い、それからキスが落ちてきた。

 

 

※上記イラストの見本。

 

 

※参考音源

音符セルゲイ・ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』/辻井伸行

 

ルンルンピアノ2台による演奏の参考映像

※本文では、ユリウスがソロ部分、イザークがオーケストラ部分を弾いています。

それを補う形でクラウス率いる弦楽オケが演奏している、とイメージしていただければ(素人考えですが)。

 

 

🎻サント・シャペル教会のコンサート(スクロールすると演奏シーンが出てきます)

 

 

🎹音楽用語
ダ・カーポ/楽譜に記された「D.C.」の箇所から冒頭に戻って繰り返すこと。
オクターヴ/五線譜の範囲内で書き切れない音の高さを指定する記号。
フェルマータ/延長記号。適当な長さに延ばして演奏すること。

 

 

 

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